think

雑感

日隅一雄『国民が本当の主権者になる5つの方法』(現代書館)、神野直彦・宮本太郎(編)『脱「格差社会」への挑戦』(岩波書店)などをこれから検討する。社会(政策)については総体的、総合的な見方が必要だ、というのが私の意見である。そういう意味で、…

集団性を巡って

少し整理してみると、Ustreamとかはてなダイアリーで8月くらいまで考察していたのは、集団とか組織化の問題だったが、別に妥当な解決を得たからではなく、とりあえずそれ以上考察を進めることが難しくなったからその後放置しているのである。それは現代(20…

福祉を巡って

フーコーの権力論を称賛する人々に疑問なのは、福祉国家批判や新自由主義への親和性を無視することであり、フーコーをマルクス主義に接続したり、新自由主義批判と結び付けることは容易ではないはずなのだが、そのことが考慮されない、ということである。彼…

ニーチェ右派、ニーチェ左派

Facebookで哲学研究者のHさんが、ニーチェ読みにはニーチェ右派とニーチェ左派がいる、という意見を書いていた。彼によれば、左派はニーチェから系譜学的な方法論だけを取り出して内容については禁欲するが、右派は「超人」、「畜群」などの概念の内容に拘泥…

弁証法について

"Oscar Peterson Plays The George Gershwin Song Book"を聴いている。大本薫さん(sunamajiriさん)が「意見から理念に転回する国語教育」というtogetterを創ったそうである。 http://togetter.com/li/378597彼女の論旨は私にはよく分からないが、意見と理…

sunamajiriさんの御意見に答えて

大本薫さん(sunamajiriさん)から、以下のコメントをいただいた。「(民主主義は)社会活動か直接投票か、社会活動をしないのはディタッチメント(超然)に見えるけど、実際は投票だけがコミットメント、というのはシンプルでいいね(^-^)/」私が申し上げた…

民主主義を考える

民主主義についてはあれこれ考えようがあると思うが、私が現在の状況に関連させて興味があるのは、今井一のいう(脱)原発国民投票を巡って生じている賛否の議論である。国民投票への賛成意見も反対意見もそれなりに納得できるものだ。あらかじめそうお断り…

様々なる臆測

別に批判しているわけではないので悪く取らないでいただきたいが、尖閣有事と津軽三味線に一体何の関係があるのだろうか。有事になれば、日本の伝統芸能が(理由が全く理解できないが)弾圧される、とでもいうのだろうか。 田口卓臣 @takuomitaguchiそうです…

私はバカが嫌いだ。(三宅雪子議員 @miyake_yukiko35 へ)

「国民の生活が第一」の三宅雪子議員の発言を読んで、「私はバカが嫌いだ」と思った。他人をすぐ「バカ」とか「アホ」と罵って言論を封殺すべきではない、というリベラルな皆さんの御意見もあるが、私は躊躇など少しもしない。「メンヘラ」という和製英語、…

抛棄する。

『ホーキせよ』、という呼び掛けには、(抛棄する)と内心そっと呟いて応答するが、その抛棄とは、権利とか財産というよりも、もっと根源的な力、それどころか生命の抛棄である。日本国憲法の九条では、国家の交戦権が否定されているそうだ。この交戦権の否…

自由と民主主義はまだやめないが、資本主義ならもうやめたい。

佐伯啓思の『自由と民主主義をもうやめる』(幻冬舎新書)という本があるが、私はまだ読んでいない。だが、内容はおおよそ察しがつく。自由と民主主義という戦後日本的な価値観、戦後民主主義を否定したくて堪らない保守派など掃いて捨てるほどいるからだ。…

書評:内山節『日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか』講談社現代新書

「山村に滞在していると、かつてはキツネにだまされたという話をよく聞いた。それはあまりにもたくさんあって、ありふれた話といってもよいほどであった。キツネだけではない。タヌキにも、ムジナにも、イタチにさえ人間はだまされていた。そういう話がたえ…

暴力の行方

それから、西垣通、内山節に共通しているのは、現代の暴力のありようの考察である。戦争 / テロリズム / 犯罪を巡る彼らの意見は必ずしも一致していないが、かつてとは少し違う暴力の発現形態があるのではないか、ということでは共通している。小さいものか…

買うことができないもの

西垣通の指摘には傾聴すべき点が多いが、一つ一つ検討していきたいが、まず、以下である。「コンビニの長所は、安心感だけではない。強力なPOS(販売時点情報管理)システムにもとづく高度な物流システムである。いつ、どこで、いかなる商品が売れているかを…

キツネに化かされず、ITに惑わされる。

私は毎日、十時間以上書き続けているが、Facebookに書いているだけである。はてなダイアリーなどで一般に公開する必要を感じないが、それは、ただの思念や会話が記録されず消え去るのみであるのと同じである。それはそうなのだが、今日は先程素晴らしい本を…

売る・売らない、そして売れない《商品》

トロンボーン奏者ではなくビジネスマンのほうの松本治さんの「リクエスト・メイド・システム」を検討するが、その前に予備的に検討しておけば、現代の我々は、流通論を考えるといっても、インターネットを抜きにすることはできない。音楽のダウンロード販売…

売る・売らないは、私が決める。

「良寛がなかなか書いてくれないという話は、当時の越後では有名だった。もともと良寛は亀田朧斎のように代価を受け取って書くことを業とする書家ではない。托鉢の余芸として詩歌を作り墨蹟に認(したた)めたものを、心ある人に布施することから発した徳行…

消費と啓蒙

暫く考えていたが、憂鬱にならざるを得なかった。私は、資本主義は素晴らしいとか、マーケティング万歳という立場ではなく、むしろ逆である。だが、資本制市場、商品社会からの出口、それの外部など見当たらないのである。それが抑鬱の理由である。人間は遥…

群集、共同体。

私が興味があるのは、個人主義は近代の建前だが、人間はただ一人では暮らしていけず、社会に住んでいるが、その社会がどういうふうに具体的に構成されているかをみれば、別に、自立した個人の自主的な判断によってそうなっているわけではなさそうだ、という…

群集、公衆、組織化の問題。

漠然とした物言いだが、或る国家とか社会の内部には、膨大な人々がいる。そのうちの一部は国籍とか市民権を持っており、外国人、野宿者など一部は権利を剥奪されている。そういう多数の個々人は、抽象的な個としてあるわけではなく、様々な仕方で組織化され…

芸術、消費、群集。

消費が、匿名的で多数の群集によってなされる、というのが、20世紀以降の先進諸国の経験においては大事である。芸術も例外ではない。多くの場合、芸術作品も商品であり、市場で売られている。例えば、Amazonで売られている。商品(芸術作品)を購入するのは…

美学の諸問題。消費の組織化。タニマチから消費大衆へ。孤立と協同。

歴史をみれば、古代ギリシャ・ローマにおいて、音楽は宗教的であると共に社会的であった。それは教育的効果、訓育という効果を持つと思われていたのである。つまり、若者を柔弱にする旋法があり、剛毅にする旋法がある、というふうに、プラトン、アリストテ…

美学の諸問題。複製技術・複製芸術、商品化の徹底。「市場」。『芸術起業論』。協同組合。

我々は、芸術音楽と商業音楽というふうな二分法を素朴に前提することは出来ない。そもそも20世紀のジャズからしてそうだったが、それは芸術性と商業性が一体になった何かである。そこにおいては、音楽家、演奏家は、芸術家でございと済ましているわけにはい…

美学の諸問題

音楽に限らないが、歴史を概念的に理解するというときの問題は、具体的な個々がそのものとしては消し去られることである。人間の歴史一般、思想史、芸術の歴史、音楽の歴史、ジャズの歴史、というふうに、しかもそれを一定の枠組みのなかで思考するとする。…

美学の回帰

ミシェル・フーコー『同性愛と生存の美学』(増田一夫訳、哲学書房)から出発し、生存の美学、芸術作品としての生というアイディアを検討してみたが、まず、根本的には、こういう考え方はフーコー晩年のカントへの回帰、『啓蒙とは何か』(岩波文庫)の再発…

人間の快楽

考察を続ければ、性ということだが、性をただの生理的な過程とだけ考える人々は非常に少ない。例えば恋愛感情によって意味付けられたり、時には神秘主義的に意味付けられたりする。性がそういう観念に還元されることはないが、他方、純粋な身体の問題だけで…

朝シャワーの楽しみ

開始は任意で構わない、というヘーゲルを私が好むのは、私自身がどんなことでも片っ端から忘れるからである。それだけではなく、たとえ忘れていない場合でも、複数の考えを実際に書くときに、どういう順番、秩序でそうすればいいか分からないからである。だ…

Facebookから

どの著作でだったかは忘れたが、ヘーゲルが、出発点は任意でいいのだ、という意味のことをいっている。どうしてかといえば、彼の意見では、何処から出発しようと、認識を進めていけば、必ず円環になるからで、そうすれば、最終的に同じことだからである。だ…

ビートルズ

届いたばかりでまだ聴いていないが、山中千尋の昨日出た新譜はビートルズがテーマで、そうすると私は、高橋悠治の娘の高橋アキの『ハイパー・ビートルズ』が気になる。『ハイパー・ビートルズ』のことは十年以上前から気になっているのだが、まだ購入できて…

雑感

遥か昔だが、早稲田のあかねに十代でやってきたゲイの子がいて、私は少し彼に興味を持ったが、彼は私に無関心だったので、人間関係はなかった。振り返ってみると、そういうことは非常に数多かった。性別を問わず、またシスジェンダーかトランスジェンダーか…