美学の諸問題。複製技術・複製芸術、商品化の徹底。「市場」。『芸術起業論』。協同組合。

我々は、芸術音楽と商業音楽というふうな二分法を素朴に前提することは出来ない。そもそも20世紀のジャズからしてそうだったが、それは芸術性と商業性が一体になった何かである。そこにおいては、音楽家演奏家は、芸術家でございと済ましているわけにはいかない。余程の資産家が道楽でやっているのでない限り、そのアーティストも生活していかなければならないからである。そして、具体的な歴史の現実をいえば、アメリカ、ニューヨークは、ジャズ・ミュージシャンにとって厳しい環境だった、といわれている。そこにおいては、バド・パウエルのような芸術家さえ酷く苦労したのである。それは、経済的な問題だけでなく、芸術家への尊敬の有無といった社会的な問題であり、また、警官からの暴力というような人種差別の問題でもあった。だから、パウエルだけでなく、大量のジャズ・ミュージシャンが、1950年代終わり頃からヨーロッパに渡った。シドニー・ベシェは先駆者だが、後に、ケニー・クラークデクスター・ゴードンケニー・ドリュージョニー・グリフィンその他がヨーロッパに移住したのである。ヨーロッパ、特にフランスでは、ジャズ・ミュージシャンは芸術家として人々から尊敬され、極めて暖かいもてなしを受けたそうなのだが、そのことには文化的な伝統という問題もあるし、そしてそれだけではないであろう。というのは、当時のヨーロッパの人々にとっても、ジャズは何か未知のもの、新興勢力であって、既知のもの、評価が確立したものではなかったはずだからである。

歴史をさらにみれば、フリー・ジャズという問題系がある。日本の山下洋輔坂田明なども全員そうだが、ヨーロッパのジャズ・フェスティヴァルに出演し、注目され、喝采された、というのが、人気が出る大きなきっかけであった場合が多い。その理由を考察すれば、ヨーロッパには現代音楽の伝統があり、芸術的、音楽的な過激な実験を受け容れる余地とか風土があったのではないか、ということである。例えば、ドイツ在住の高瀬アキなどの場合を考えてみればいいであろう。

フリー・ジャズではないが、フィニアス・ニューボーン・ジュニアは、1970-1980年代に、矢作俊彦の証言を信じるならば、肉体労働、検察作業、道路工事で両手の爪を土で真っ黒にして働きながら、夜はクラブでピアノを弾いていたそうである。フィニアスほどの圧倒的な芸術家さえもそうだったとしたら、当時のニューヨークというのは、一体どのくらい苛酷な環境だったのだろうか。

私が一番言いたいのは、芸術作品と商品とのややこしい関係なのだが、そこに入る前に一定の展開が必要なのだが。上記の話を続ければ、現実問題として音楽家が社会的、経済的に成り立つための条件は、これまでは、スタジオの仕事であった。つまり、映画とかTVなどの効果音、BGMである。そういうところで仕事が出来るかどうかが決定的なのだ。例えば、ジャズ・ベーシストの立花泰彦とCDを出しているアルト・サックスの泉邦宏という人は、いかに演奏家として優れていても、そこのところで大変苦労したと聞いている。アメリカに眼を向ければ、ハンク・ジョーンズのような優れたピアニストでさえ、10年間隠退し、CBSのスタジオ・ミュージシャンとして働いていた。スタジオということではないが、トミー・フラナガンも或る時期まで伴奏、サイドメンとしての仕事が大多数であり、音楽家の条件を考えさせる。

このことをもう少しいえば、バークリー音楽院の教育の仕上げは、コンピューターの打ち込みで音楽を創ることであり、さらに、ハリウッドの仕事やスタジオに生徒が適応できるようにする実際的な教育、訓練であった、といわれている。それは、現代世界で音楽がどのように成り立ち、存立しているのか、というようなことへのリアルな洞察に基づくのである。

さて、ここまでを予備的に申し上げた後で、ようやく芸術作品と商品の関係という本題に入ることが出来るが、ベンヤミンがかつて論じた、複製技術、複製芸術の普及・一般化以降、芸術作品の多くは複製可能な商品になった。これが歴史の事実である。例えば、我々のなかに、数億円以上支払ってゴッホの絵画を購入できる人々はほとんどいない。しかしながら、それを美術館でちょっと観るか、画集を買うくらいのことなら誰にでも出来る。音楽はライヴであるだけでなく、CDやmp3ダウンロードなどとして複製され販売されている。言葉で出来た文学が複製可能なのは言うまでもなく、漫画なども電子出版などで売られている。映画とかドラマはVHSヴィデオとかDVDなどとして複製され売られている。こうしてみてみると、最も複製に馴染まない、複製することが困難なのは、演劇とかダンスである。そういうものについては、そもそもアーカイヴ、記録が成り立たないのではないか、その公演に立ち会ったごく限られた少数の人々の記憶に依存するしかないのではないか、という問題がある。

それはそうと、一切が商品化され、文化的なコンテンツや情報財も例外ではなく、知識も教養も、芸術もパフォーマンスも、一切何もかもが売られる、それも複製されて売られる、という状況がどんどん進行することの社会的な意味は、消費社会ということだけでなく大衆社会、大衆化社会である。日本の近代史でいえば、大正時代とか昭和初期からそうなってきたと思うが、新しい風俗が出て来た。それは複製技術を含めた最新テクノロジーと資本主義の現実に依拠していた。例えば、映画とかジャズが流行したが、そういうことは、技術的、経済的基盤がなければあり得なかった。出版においては、円本とか廉価な文学全集、思想全集などが出版され始めた事実を指摘すべきである。小林秀雄モーツァルトSPレコードで聴いていたし、そういう芸術の享受は当時、ごく当たり前で一般的だったのではないだろうか。

そこにはアドルノが想定する、商業主義を拒絶する芸術音楽とか、一定数の厳しい趣味、審美眼を持つ選良などが存在出来ない。アドルノの芸術論、音楽論、有名なジャズ否定は、巨大なノスタルジー、回復することの出来ない過去への郷愁であり憧憬なのだと理解すべきなのではないだろうか。彼の眼差しは、未来ではなく過去を向いている。彼が把握する現在は、シェーンベルグ新ウィーン楽派であり、彼が大著を書くのは、ベートーヴェンについてである。それは確かに偉大な過去だが、既に過ぎ去り終わったものである。

アドルノ以降現代に至るまで生じてきている現実、社会的、社会学的現実は、非常に憂鬱なものである。我々がCDショップ、TSUTAYAを観察したり、その他の方法であれこれ情報を集めると、今は、たとえクラシックの演奏家でも、一定以上にルックスが良くなければデビューが難しい、という話を聞く。CDを出すとすると、ジャケットにそのアーティスト、例えばピアニストの写真を使う。そうすると、美人であるほうがそうでないよりも勿論有利である。我々がCDを購入する場合、基本的に、事前に中身を聴いてから買うことは出来ない。我々は音楽の中身をはっきり知ることなく買うのである。そういう消費・購買は多くの場合批評とか噂、評判に基づいているが、それほど音楽、クラシックとかジャズに詳しくない人がCDを購入したりレンタルする場合を想定してみれば、所謂「ジャケ買い」が多いのではないか、と推測される。それを通俗的だと責めるわけにもいかない。音楽の内容を承知したうえで購入できないのだとすれば、選択とか消費は或る程度いい加減で無根拠にならざるを得ず、それこそジャケットなどになってしまうのだ。

そしてさらに、現代日本では、TVのアニメとかドラマの影響が極めて大きいらしいということも聞いている。クラシックであれば「のだめカンタービレ」、ジャズならばかつては「スウィング・ガールズ」、今なら「坂道のアポロン」などである。そういうものの影響で、いきなりセールスが伸びたり、ブームが去れば落ち込んだりする。そういうことは音楽表現の中身とは無関係だということは間違いないが、その経済的影響は大きいのだ。こういうことを、さて、どうすればいいのだろうか。