美学の諸問題

音楽に限らないが、歴史を概念的に理解するというときの問題は、具体的な個々がそのものとしては消し去られることである。人間の歴史一般、思想史、芸術の歴史、音楽の歴史、ジャズの歴史、というふうに、しかもそれを一定の枠組みのなかで思考するとする。そういう大枠の議論からは、個々、例えば「ジャッキー・マクリーン」の固有性が出て来ないのである。そういうことへのファンや音楽家演奏家からの強い反撥がある。だが、美学者はそういう反感を買うことを最初から承知しているのでなければならない。

歴史を理解するとき、論理と事実、概念と個体というのは難しい問題である。勿論、個々の存在者及びそれらに関わる事件や出来事がなければ歴史もなかったのである。だが、我々が、一切が終わった後から全てを理解しようとすれば、かつて生き生きとしていた個別者が、まるで絵のように動かない想い出として現れてくるのである。「絵画としての想い出」、というわけである。

もう少し別な言い方をすれば、キェルケゴールが『愛のわざ』で、「死者は狡猾である」と言っているらしい。それを『倫理21』で柄谷行人が前後の文脈から抜き出してそれだけ引用し、それを多くの人々が再引用しているようである。それを小林秀雄の次の言葉と比較してみてはどうだろうか。「母親にとって歴史事実とは、子供の死という出来事が幾時、何処で、どういう原因で、どんな条件の下に起こったかという単にそれだけのものではあるまい。かけ代えのない命が、取返しがつかず失われて了ったという感情がこれに伴わなければ、歴史事実としての意味を生じますまい。」

歴史と記憶、想い出の関係、生者と死者の関係が問題になる。歴史を世界史というようなレヴェルで考えれば、それは客観的なものである。つまり、事実の累積である。だが、我々が知る歴史、我々にとっての歴史は、ただ単に物理的事実の集積であるだけではなく、我々が想い出すものの集積であり、思い描くものの集積であり、要するに我々にとっての「意味」である。意味を事実に還元することは出来ない。事実から発生してくるのだとしても。

死者は沈黙しているし、行為できない。生者と死者の関係は複雑であり、繊細微妙であり、欺瞞や錯覚に満ち満ちたものである。生きているか死んでいるかというステータスの違いは絶対的であり、生きている我々は死んだ彼らを利用しているだけである。我々が何を言おうと彼らは言い返してこないし、我々の発言とか行為を訂正したり反撃することは出来ないのである。死者は沈黙している。彼らの像は、記憶のなかで、絵画、写真、静止画像のように、不動で動かない。ベルクソンの指摘にも関わらず、我々が他者を想起し想像しようとするときの記憶力や想像力は、スタティックなものであるのが普通である。像、イマージュを動くもの、変化するものと捉えるのは難しいのである。像、イマージュは概念ではないが、少しそれに似ている。つまり、静止的である、という点で。

過去の出来事、過去の経緯を後から変更することはできず、あり得たかもしれない別の歴史などというものは、全く何一つなかった。無限に多数多様な可能世界、別の歴史の数々、「可能性」などは、想像、空想、錯覚である。そんなものはありはしなかったし、不可能だったのである。事実性という条件を変更することはできないのである。特に想像的に変えることはできないのだ。

もう少しいえば、死者とか過去の想い出は、無力なのかといえば、生きている我々にとんでもない観念、桎梏として影響力を及ぼす場合がある。我々は死んだ彼らの遺したものの総体、その枠組み、条件、制約のなかでしか、生きることも考えることもできないし、何かを実現することもできないのである。さらに、現在の我々が過去に存在した人々の衣裳を身に纏って、舞台に上がる場合もある。少し皮肉にいえば、歴史的コスプレである。例えば、21世紀の我々が、昭和維新、さらには明治維新を模倣し反復する…。そこにおいては、過去の観念が我々を深く拘束し、逃れようのない運命、必然性を形づくっているのだろうか。それはそうなのかもしれないが、そういうふうな過去の影響力は、現在生きている我々が捏造しでっち上げているものである、しかも自分の利害・思惑によって都合良くそうしているものである、ということが重要である。過去の人々、過去の死者、或いはそれに限らず他者などというものは、今ここに生きている人々に、ただ単に利用されるだけなのである。それが非情な事実だ。

だが、私が言いたかったのは、実はそういうことではない。それは価値を巡る原理的な問題である。

商品には価値があるといわれる。その価値をアダム・スミスリカードウ以来の経済学は解明しようとしてきた。マルクスの『資本論』が一つの結論だし、そういうものを異論を唱える新古典派もある。さらに、ケインズシュンペーターなど20世紀の経済学もある。それ以降、それ以外の展開も無数にある。だが、我々はここでは、商品の価値の源泉が人間労働であろうとなかろうと、また、価値と価格を巡るマルクス経済学のパラドックスがどうであろうと、そういうことは一切度外視して、商品の価値は一定額の貨幣で表現可能である、という事実だけに注目すればいい。そこに人間労働が凝結しているのかどうか、ということは、さしあたり問題にしなくてもいい。

さて、芸術作品には価値がある、といわれる場合は、違った意味である。それは金銭で購入できる、というものではなく、美しいという意味である。そしてこの美が、感性的、感覚的なものであるとともにそれを超過したものであり、どこまでも個人的なものであるとともに、ただの個人を超えたものでもある、というのは、言うまでもないことである。

芸術作品とその価値を巡って、難しいのは、まず、音楽でいえば芸術音楽と商業音楽、芸術性と商業性の相克、極めて複雑な関係である。芸術家の創造行為と「市場」との関係と定式化してもいい。そして、さらにそれに還元されない問題系も幾つかある。まず、それ自体として超越的な価値を有する芸術と、「市場」に決定される商業という分裂が生じたのは、近代以降、近代ヨーロッパ以降のことなのである。それ以外の文化と地域には、そもそもそれ自体として純粋化され自立した芸術とか芸術美などがなかったのである。勿論、人間が集団的に暮らしている限り、いついかなる時代、地域にも文化は発生する。そして、どんな人々であれ、何かを生産、制作しているであろう。だが、例えば、ウィリアム・モリスラスキン柳宗悦などの考察の対象は、民芸、工芸であり、伝統的なものである。それは、芸術作品か商品か、という二分法に馴染まず、むしろそういう二元性が生成してくる手前にあり、人々の素朴な生活と共にあるようなものだ。文学の領域でいえば、和歌、短歌、特に日常生活を群小無名の歌人が詠むような場合はどうだろうか。それは、専門的、自立した芸術作品としての文学とは異なるのである。

それから、岡崎乾二郎が西暦2000年の段階で論じていた、「一物多価」は、それはそれでまた、よく検討しなければならない厄介な問題である。彼の議論のそもそもの前提は、ごく普通の経済学では、市場において、商品には「一物一価」が想定されている、ということである。市場に何か或る商品があるとすれば、その価格は大体定まっているのが普通である。根付けが瞬間瞬間に滅茶苦茶に変動するものは少ない。さらに、同一の種類、同一の範疇に属するもろもろの商品の数々も、その値段は同一であるか類似している、一定額を巡って「収束」しているのが普通である。そういうことを観察するには、近くの商店とかスーパーマーケットを覗いたり、Amazonそのものとかそのマーケットプレイスを調べたりしてみれば、納得されるのではないだろうか。

さて、経済学の理論、経済的、産業的、商業的な現実、資本主義、資本制経済のなかでも、「一物一価」は別にその通りのものとして実現されない。実際には、商品の値段は、一つ一つ異なり、また、場合によって微妙に異なるのが普通である。Amazonで或る商品をチェックしていても、数日で価格が少し変動する、というようなことは頻繁に観察される。また、パソコンのような、オープン価格で売られている商品もあることを考慮すべきであろう。ただ、「一物一価」は、こういってよければ、統整的理念である。つまり、自然が斉一的であるとか、規則に従う、秩序があるとか、歴史には意味があるとかいうのと同じステータスのものである。それは「収束」を意味しており、或る経済体系、経済システムの安定化、日常化、習慣化を齎すものである。商品の価格がほぼ一定し、安定している、という前提で、我々は安心して物を生産したり(労働したり)、消費・購買できるのだが、当たり前だが、そういう落ち着いた条件・状況が常に維持可能であるというわけではない。

岡崎乾二郎の「一物多価」に戻れば、そこにはふたつのモーメントがある。つまり、ひとつは、芸術作品という特殊な商品の導入である。岡崎は「売れ残りの商品」という発想を表明し、消費・購買という時点での価値の実現への決定的な遅れ、遅延、非同期性を見出してきた。芸術作品が売れない、或いは、売られない、市場での販売に抵抗するか拒否する、という性格は、それはそれとしてありとあらゆる意味で深刻に考えられなければならない。つまり、思想的な意味から、社会学的な意味に至るまでを吟味されなければならないのだ。勿論、美学とか芸術学も、そういうものを考察しなければならない。

もうひとつのモーメントは、地域通貨、特にLETSである。我々個々の消費者が、自らLETSを発行して或るモノ・サーヴィス、芸術作品、パフォーマンスなどに支払うとすれば、その支払いは、既に事前に決まった価格の地域通貨を払うだけでなく、「批評的な価値づけ」、評価である場合がある。つまり、或る作品に価値があるのだと私が思えば、自分の意志、願望、裁量で、例えば30000LETSを振り込み、送り、贈る、というようなことになるのだ。特に芸術などの文化の領域においてそうだし、それ以外のモノ・サーヴィスにおいても適用でき、さらに、別に芸術作品でも商品でも通常の意味ではないものにも適用できる。例えば、夫婦とか親子、家族、友人の間での「肩叩き」などである。そういうものへの感謝の気持ちを地域通貨の支払いを通じて表明、表現したりするのだが、そこに言葉の通常の意味での経済的な要素がないことは確かである。つまり、それは、何よりもまずコミュニケーションであり、意思疎通であり、想像と感情という次元においてあるものなのだ。そこにおいては、貨幣の役割は言葉と同一である。だが、考えてみなければならないのは、言葉によって「有難う」、「お疲れ様」と感謝し労うことと、一定額の貨幣を黙って支払い振り込むことの間に存在している乗り越え難い深淵である。

また、倉数茂が指摘していたが、こういう事態も想定しておいたほうがいいだろう。一つのメーリングリストで、或る会、社会的な運動でもいいし、別に文化的なサークルでもいいのだが、そういうものを運営し、地域通貨を導入してみるとする。そこでは、メールとか実働に地域通貨支払いがなされ、個々のメンバーは、メールで議論したり、理論をやったり、事務・実務を担ったり、或いは実際の行為・行動で何かしている人々に、感謝の気持ちとして一定額の地域通貨を支払う。

そういうシステムにおいては、倉数が指摘していたように、問題になるのは、経済的な実質ではなく、純粋な「名誉」のような精神的な要素である。というのは、もし多額の地域通貨を受け取っても、少なくとも今すぐにそれで生活が成り立つとか、贅沢な消費ができるわけでは全くないからである。そうするとそこには、一定数の会員達からこれだけ感謝され称讃されたのだということの数量的な表現しかないのではないだろうか。繰り返しになるが、そこにある問題はふたつである。まず、言葉の普通の意味での経済などではないということ。もう一つは、感謝の気持ちを表明するなら、ただ単に貨幣を支払って済ませるのではなく、言葉を掛けたり、身振り、行動で具体的に表現される必要があることである。

そしてもし、或る人が何かメールを書いたり行動してみて、そのことへの他者からの評価が端的にゼロだったとしたら、その人は落ち込み、もう二度とメールを書く気にならないだろう。批評的な価値づけ、価値評価を導入するということは、何も全て円満にいくというわけではなく、評価がゼロである、或いは極めて厳しい、辛い評価になる可能性もある、ということを意味している。

問題これだけではなくもっと他に大量にあるが、とりあえずはここで一旦送信しておく。