キツネに化かされず、ITに惑わされる。

私は毎日、十時間以上書き続けているが、Facebookに書いているだけである。はてなダイアリーなどで一般に公開する必要を感じないが、それは、ただの思念や会話が記録されず消え去るのみであるのと同じである。それはそうなのだが、今日は先程素晴らしい本を二冊読んだので、紹介しておきたい。西垣通『IT革命:ネット社会のゆくえ』(岩波新書)と内山節『日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか』(講談社現代新書)である。

私は、ごく一般的な左翼思想というよりも、スロー思想への接近を隠さないが、これらの二冊の本にもそういう発想は濃厚だ。西垣は『スローネット』の著者である。彼は、「IT革命後、われわれは生きる意味を見いだせるのか、生きがいを持って暮らしていけるのか」(6ページ)という問いを提出する。彼は「生きがい」などという言葉が古臭く響くということは承知している。それでも、ただ単に経済回復の切り札としてだけITを捉えるのは、どうみても不十分なのである。西垣は、「生きるに値するネット社会をいかに作るか」(7ページ)ともいっているが、裏返せば、20世紀末から今世紀に掛けて、急速に従来の「意味」が喪われてきた、ということである。

「IT革命とは生産効率向上の話だけではない。それは生産体制を米国型のグローバル・スタンダードに合わせることで景気を回復させる特効薬だ、という見方は狭すぎる。」(9ページ)というのは、実にその通りである。経済論壇にはその類いの議論しかないが、実は、変容するのは人間と人間とのコミュニケーションであり、価値観である(10ページ)。

現代社会でもっとも太い情報ルートが第三ルート(マスメディア)だとすれば、その寡占状態が崩れることは、大衆の生産・消費活動をはじめ、社会の成り立ちそのものを根底から変革せずにはいない。それこそがIT革命なのである……。」(19ページ)

この意見は尤もだ。20世紀が、特に所謂先進諸国において大衆社会だったということには異論がないだろうが、その場合の大衆、多数者の主観性が新聞やテレビといったマスメディアと緊密に結び付いていたのはどうみても事実である。勿論インターネットが幻想の破壊や解放を齎すわけではないが、マスメディアが個人的、或いは小集団的なメディア多数に取って代わられつつあることは、確かな状況の変化である。

西垣の分析では、IT革命とは、インターネットによる取引コスト削減といった経済的次元にとどまらず、その正体は、生産者側の効率向上よりもむしろ消費者側の生活革命である(34ページ)。メディア・ビッグバンにより「放送と通信の融合」が生じ、情報共有の民主化が人々の考え方やあり方、振る舞い方を変えていく。

それはそうなのだが、西垣は楽観的ではない。草の根民主主義者が「ネティズン」を称揚しても、そこには技術的、経済的、倫理的な様々な問題があるから、著者はオンライン共同体、地域通貨として用いられる電子マネーを媒介にしたコミュニティを志向する。だが、そこには難しさもある。

パソコン、それから携帯電話端末などを使いこなせるのは確かに若い世代が多いが、この本が書かれたのは2001年だが、十年以上が経過しても、別に、高齢者でも使えるようにテレビが端末になる、というような事態が普通になってはいない。また、刹那的で匿名的なウェブ掲示板の行き擦りの関係が虚しくても、オンラインでヴァーチャルな共同体を構築するのは、そういうときに共同体とかコミュニティといった言葉にどういう意味価を担わせているのだとしても、やはり困難である。

だが、物流と情報流の問題なども含めて丁寧に考察している著者の姿勢には極めて好感が持てるし、こういう考え方の延長線上に確かな近未来があると思える。内山節の新書の検討は、また後日に譲りたい。