書評:内山節『日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか』講談社現代新書

「山村に滞在していると、かつてはキツネにだまされたという話をよく聞いた。それはあまりにもたくさんあって、ありふれた話といってもよいほどであった。キツネだけではない。タヌキにも、ムジナにも、イタチにさえ人間はだまされていた。そういう話がたえず発生していたのである。

ところがよく聞いてみると、それはいずれも1965年(昭和40年)以前の話だった。1965年以降は、あれほどあったキツネにだまされたという話が、日本の社会から発生しなくなってしまうのである。それも全国ほぼ一斉に、である。」(内山節『日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか』講談社現代新書、3-4ページ)

私がこういう内山節が面白いと思う理由は幾つかあるが、まず、客観的で物理的な歴史が問題なのではない、ということ、それから、『遠野物語』のような民俗学とは違って1965年までキツネにだまされていた、という議論だということである。

キツネにだまされた話が1865年以降は発生していないというのは、内山節の経験的な感想だが、実証することはできないだろう。それどころか、そもそも、客観的、合理的には、キツネにだまされたという話そのものの内容が検証できないはずだ。我々はキツネはただの動物であり、それ以上ではない、と思うであろう。それは我々は近代人だということだが、そこで喪われたのは、言葉の普通の意味での(狭い意味での)宗教的信仰だけではなく、或る種の象徴的、または想像的な世界体験の様式でもあるようだ。

それは民俗的な世界ともいってもいいが、そういう世界の内実を記述することはできないから、そういうものがどういう条件で喪われたのかを考えたほうがいいが、内山節が挙げている理由の一つ目は高度成長期の人間の変化である。

「経済成長が統計的に現われてくるのは、1956年(昭和31年)からといってもよい。この年を境にして、日本のGDPは拡大しつづける。」(35ページ)そして、それから徐々に人々の生活は、まず都会で、そして農村でも豊かになり始める。

内山が挙げる二つ目の理由は、「科学の時代」における人間の変化である。三つ目の理由は、コミュニケーションの変化、電話、テレビの普及、漫画雑誌を含む週刊誌などの増加である。四つ目の理由は進学率の高まりである。五つ目の理由は死生観の変化である。六つ目の理由は自然観の変化である。

それは近代化ということだが、それによって喪われた民俗的なものを、内山節は生命世界、ミクロな世界、ローカルな世界、「里」の世界と呼ぶ。そういうものの再発見、再創造は容易ではないだろうとは思うが、歴史について再考するということくらいはどうしても必要であるはずだ。