暴力の行方

それから、西垣通、内山節に共通しているのは、現代の暴力のありようの考察である。戦争 / テロリズム / 犯罪を巡る彼らの意見は必ずしも一致していないが、かつてとは少し違う暴力の発現形態があるのではないか、ということでは共通している。

小さいものからいえば、まず、コンピューター・ウイルスによるサイバーテロである。西垣によれば、そういうウイルスを作るのは、何も超専門家でなくても、専門学校でちょっとプログラミングを学んだだけの学生でもできるそうだが、数十億円規模の莫大な損失を齎す。それは不可避の偶発事故などではなく、悪意的な犯罪行為なのである。

或いは、『怯えの時代』で内山節は、自らの妻の死に際して感じた自由から、2008年に秋葉原で起きた無差別通り魔殺人を考察した。『「里」という思想』では、テロリズムを考察している。そこで検討されているのは、9.11だけでなく地下鉄サリン事件でもある。

ポール・ヴィリリオがそうだったが、先端的な現代技術を批判的に検討していた著者が伝統的な価値観に回帰して、保守的な相貌を見せることがあるが、それは恐らく現代技術が齎す加速が人間的ではない、という感覚に基づいている。

犯罪について心理的に詮索しても致し方がないかもしれないが、加藤智大について内山節がこだわっているのは、加藤がネット掲示板で犯行予告をしていたのは誰かに自分の犯行を止めて欲しかったからではないか、という推測に基づく。ところが、実際にはネット掲示板の住民は誰も加藤を制止しなかった。そのことから生じた加藤の行為は、確かに自由かもしれないが、極めて孤独な自由だ、というのが、内山の意見である。

また、かつてのアルジェリアが植民地支配から独立するときのテロリズムは不可避な苦渋の選択で、自己犠牲的だったのだとしても、地下鉄サリン事件はそうではないただの犯罪だ、とも彼はいっている。そうかもしれないが、そこから推測すべきなのは、現代においてかつてのような政治的なテロが成り立たず、ただの犯罪といった無意味な次元しかないのではないか、ということである。

コンピューター・ウイルスの作成、サイバー攻撃などのサイバーテロにおいて、別に実行犯は自らの生命を賭けて政治的な大義を主張しているわけではなく、むしろ愉快犯的なのではないか、とも推察できるであろう。ウイルスを作ってネットでばら撒いても、そういうことをした犯人は少しも傷を負わないのである。ひょっとして身元が割れれば逮捕くらいはされるのかもしれないが。

9.11などについては、また別の分析が必要かもしれない。