sunamajiriさんの御意見に答えて

大本薫さん(sunamajiriさん)から、以下のコメントをいただいた。「(民主主義は)社会活動か直接投票か、社会活動をしないのはディタッチメント(超然)に見えるけど、実際は投票だけがコミットメント、というのはシンプルでいいね(^-^)/」

私が申し上げたかったことは少し違っている。よく、直接民主主義と間接民主主義という区別がある、というふうに言われたり、選挙よりもデモのほうが民主主義的だと言われたりする。そこには民主主義についての異なる理解があるのである。

それは、意見の複数性を重視するか、民衆(多数者)の意見の実現を重視するか、ということである。ただ、私を含めて、意見の多様性を尊重すべきだ、ということは誰でも言うが、自分が支持しない意見が実現されることを望む人は誰もいない。そこには、議論、検討というモーメントと決定というモーメントがある。

それが通常の選挙であれ、国民投票のようなものであれ、投票だけが民主主義的であるはずがなく、大本さんが「社会活動」と呼ぶもの、デモとか、それ以外には何らかの団体への参加などの活動がある。後者について、政党や労働組合といった中間団体に以前言及したが、現代ではNGONPOといった市民団体も重要だ。

だが、デモには主張を同じくする人々しか集まらない。市民団体にはその団体の理念、ミッションに賛同する人々しか集まらない。だが、世の中にはデモにやってこない、脱原発に反対であったり懐疑的であったりする人々もいる。彼らの存在や意見をなくすことなどできないだろう。意見の複数性、多様性を尊重すべきだというリベラルな主張と、圧倒的な民意が実現されるべきだ、という主張の間には緊張関係があるのだ。例えば、脱原発派は、圧倒的大多数の人々が原発の危険性を憂慮しているはずなのに、政府がすぐに原発を停止しないのは欺瞞だ、そこには「民主主義的」と称されているシステムの欠陥があるはずだ、と思うであろう。確かにそうかもしれない。多様な意見を尊重すべきだという美しい理念は、実は、圧倒的な民意の実現を阻止し抑圧するための方便であるに過ぎないかもしれないのである。