群集、公衆、組織化の問題。

漠然とした物言いだが、或る国家とか社会の内部には、膨大な人々がいる。そのうちの一部は国籍とか市民権を持っており、外国人、野宿者など一部は権利を剥奪されている。そういう多数の個々人は、抽象的な個としてあるわけではなく、様々な仕方で組織化されている。古代から中世までの社会と違って、近代社会は、個人は独立した自由な人格だというのが建前なので、人々の自発的な同意とか合意が問題だが、そういうものは待っていれば自然に出来上がるものではなく、政治、経済、文化、軍事のいずれにおいても、そういう分野で力を持つ人々による意識的な働き掛けとか仕掛けがなければ駄目なのである。

軍隊を考えてみれば、傭兵とか、或いは、社会のごく一部としての戦士階級ということでなく、「国民」皆兵という原則が近代に出て来たとしたら、ナショナリズム愛国主義といったイデオロギーに新たな意味付けがなされなければならない。戦場死は有意味だから、危険を冒すことになるとしても、徴兵に応じて戦争に行って貰いたい、というわけである。そこにおいて出て来るのが、家族、例えば両親、妻、子供だけでなく、同朋とか民族というイデオロギー、想像物である。想像物とかイデオロギーというと悪い意味のようだが、フランスのナポレオンの侵略にドイツの人々が抵抗する、日本の帝国主義的な支配に朝鮮の人々が抵抗するといった歴史的な事例を検討してみれば、少しも悪いことではないのではないだろうか。そこにおいて民族性、民族意識の自覚、昂揚が出て来るのは実に当たり前のことである。

ともあれ、戦争は、色々な意味で戦争を遂行する国家を変える。1930-1940年代の日本、大日本帝国だけでなく、9.11以降の現代アメリカも愛国的になったのであり、「愛国者法」まで成立したくらいである。アフガニスタン攻撃などにおいて、アメリカ国内では、異論とか反対意見を表明することさえ身の危険、孤立が懸念されて出来ない状況だったそうだが、国内全体、社会全体が、熱に浮かされていたのである。もしかしたら今現在もそうかもしれない。だが、アメリカは既にもう、アフガニスタンイラクもその体制を覆し、そして、テロを首謀したとされるオサマ=ビン・ラーディンその人も殺害してしまった。そうするとそれ以後は、達成感というよりも、虚脱状態なのだろうか。次はイランだ、などといっても、それほど人々、国民の間に元気は出て来ないし、出て来るはずがないのではないだろうか。

戦争が人々の共同性、結束を高め、「国民」の感情的な絆を強固にするのは、歴史的な事実であり、過去そうだったというだけでなく、9.11以降、21世紀の現在においても観察されている。分かり易い「敵」を設定することで、例えば、イスラームとかアラブ人に差別的なイメージを抱きレッテルを貼ることで、自らは安全を志向し、結束、団結するのである。

そして重要なのは、特に20世紀の帝国主義戦争がそれだけではなく、非常に大きな経済的効果もあるということである。つまり、武器が売れるのである。第一次世界大戦は、ヨーロッパが主戦場だったが、アメリカは、自ら戦わずして、その戦争によって大きな経済的利益を得た。イギリスに代わってアメリカがヘゲモニーを握るようになったのは、第一次、第二次世界大戦のせいなのである。第二次世界大戦でも、アメリカは、大日本帝国空軍から真珠湾攻撃を受けはしたが、基本的に、アメリカ国内は戦場になっていない。それまで国内が戦場にされた歴史的経験がなく、国外でばかり戦争、戦闘を繰り返していたから、アメリカ人の圧倒的大多数は9.11に衝撃を受け、混乱、狼狽したのである。それはともかく、そういうアメリカは第二次世界大戦後、疲弊したヨーロッパにマーシャル・プランなどの援助計画を出すと共に、自らは世界史・世界秩序・世界経済の中心に躍り出た。当時はスターリンソ連があったが、5ヶ年計画で飛躍的な経済発展、工業化を成し遂げていたソ連と政治的、経済的、文化的、軍事的に競争していたとはいえ(それが東西冷戦だが)、実のところ、米ソの二者は別に対等ではなく、アメリカが常に優位だったのではないか、と疑われる。そして、いつということははっきりいえないが、ソ連は経済的にも苦しくなり、平和主義だからというよりも、軍備拡張、軍拡を続けることが経済的、国家財政的にも苦しくなった。そうすると、アメリカの経済援助に頼るしかなかったのである。そういう深刻な状態に陥っていたとしたら、そういう当時のソ連アメリカ帝国主義を打倒できるような力量があったと考えられるであろうか。私はそうは思わない。

ルーズヴェルト大統領について、彼の時代にアメリカ経済が不況から脱出したのは、別にニューディール政策のせいではなく、第二次世界大戦の戦争経済、戦時景気によってなのだ、という柄谷行人の指摘があるが、それが経済的、歴史的にみてそうなのかは確かめる方法がない。だが、ありそうな話だとは思う。1945年の屈辱的な敗戦の後の日本、日本国憲法によって成立した日本国を考えてみても、戦争による徹底的な破壊、廃墟から立ち直り、高度経済成長というような、当時世界中から奇蹟と思われた発展をしたのは、朝鮮戦争の特需、ベトナム戦争の特需があったからではないだろうか。当時、日本国内にはアメリカ軍の基地があった。沖縄から、ベトナムに向けてアメリカの軍用機が多数、飛び立っていった。その意味で、日本も明らかに戦争協力していたのだが、しかしながら、それは、あからさまで主体的なありようによってではなかった。戦争に自ら主体的に関わらず、経済的な利益、利潤だけを得た、という点で、それはかつてのアメリカと全く同一である。その後、1980年代に日本がバブル景気で、一時世界の頂点、先端に到達したかのように錯覚されたのも、基本的には上述のような経緯、経済的な利点、メリットが確保されていたからにほかならない。

軍事について説明するだけで時間が掛かってしまったが、それ以外の領域、政治、経済、文化においても、組織化の問題、群集と公衆、共同性、共同体、集団のありようを考察できる。例えば、政治については、我々の自由主義体制においては、基本的に、間接民主主義、議会制民主主義、代議制であり、そこでは一人一票の投票行動が重要である。もし投票と消費、買い物が似ているとしたら、無記名投票であるという点だ。現代の普通の選挙においては、票に自分の名前など明記されていないし、買い物をするときにも、金銭、日本銀行券に自分の署名などないのである。つまり、投票であろうと、買い物であろうと、はっきりといえば誰がしようと構わないのだ。それが票であり貨幣でありさえすればいい。そこで、数、多数が問題になるし、多数でありさえすれば中身は誰でもいい、という、無関心性、無差別性が生じる。それは、政治的にいっても経済的にいっても、近代社会の本質である。そして、顔が見える関係の回復を訴えるというのは、政治においてであれ経済においてであれ、近代のそういう自明視されている前提を疑い覆す、批判する、という意味なのである。

文化においては、文化も商業に結び付いているという大衆文化状況、大衆社会状況を考慮すべきで、それは例えば安価な書籍、円本などが出回るようになったこと、岩波文庫その他の文庫が充実していること、新書による啓蒙も意図されてきていること、さらに、1998年以降はインターネットで多くの情報にアクセス出来、そのなかには青空文庫とかグーテンベルグ・プロジェクトなどのように古典も含まれることなどが重要である。そして、義務教育(小学校、中学校)、高等学校、大学、大学院などの教育機関も非常に重要だ。学制、公教育は近代の建前だが、それだけでなく、歴史の或る時期から圧倒的大多数が高校に進学するのが当たり前になった。次いで、大学に進むのもそうなった。さらに一時は大学院さえも敷居が低くなっていた。ところが問題は、どんな社会も、それほど多数、大量の専門家を雇用する経済的な力がない、ということである。そうすると、現代では中国がそうなっているが、大学などの高等教育機関に教育的な投資をしてみても、見返りを確保することが全く不可能である、という深刻な現実がある。それはそうと、義務教育であれ、高校、大学、大学院であれ、そこにおいて知識とか教養、或いは、芸術的、美的な体験をどう、一般の生徒とか学生に共有し普及していけるのかというのは、非常に重要な問題であり、私の意見では、かつてのアドルノとか丸山眞男のようなエリート主義、教養主義はもう成り立たないのではないか、と思う。非常に無知な人々でさえも大学に入ってくることはもう自明の前提にすべきであろう。ソクラテスの存在すらも知らない人々も多いし、そのことを無教養だと嘆いたり非難しても始まらないのである。もしそういう状況であるならば、反知性主義に抗議して啓蒙主義的な活動を行う、といっても、教師とか知識層の人々にはどういう具体的なことが出来るのか、を問うべきであろう。