芸術、消費、群集。

消費が、匿名的で多数の群集によってなされる、というのが、20世紀以降の先進諸国の経験においては大事である。芸術も例外ではない。多くの場合、芸術作品も商品であり、市場で売られている。例えば、Amazonで売られている。商品(芸術作品)を購入するのは個々人である。音楽を考えれば、個々人が一度に使う金銭はごく少額である。CDであれば、2000円から3000円である。そういうものは、一点数纏まらなければ、経済的な力にならない。レコード会社とか音楽家本人も、一定程度売れなければ利潤が上がらず、収入にもならないのである。

消費は、多くの場合、無秩序的であり無意識的である。というのは、個々人は己の欲望に従って商品を購入するだけである。マルクスは『資本論』で、商品は交換価値と使用価値という価値の二重体であるというけれども、一定額の貨幣を支払って購入するというだけの意味では交換価値だけれども、その商品によって何かの必要を満たしたり、楽しむという意味では使用価値である。ところで、芸術作品という商品の使用価値は謎である。それが一定の快に基づいていることは確かだが、芸術に関わるそれは美的体験といわれる。そしてこの美的体験の意味やありよう、個々人と集団なり共同性の関係も不明である。美意識、価値観、趣味などの概念を導入すると、難しいことが分かるのである。

消費は、無秩序的であり無意識的であるといったが、多くの場合、個々人は自分勝手に消費しているだけでも、事後的には一定の秩序が出来上がる。色々な理由があるが、一定以上に売れる商品と全く売れない商品が出て来るのである。そこには、芸術作品を含めて、広告産業やマーケティングの力を考えなければならない。我々の嗜好、欲望、選択は、そういう経営学的な知とか技術によって規定、決定、支配されている可能性がある。

ここで考察しておけば、消費が組織化されるのには幾つかの方法があり得るので、指摘しておきたい。

まずは、かつてのソ連や東欧のような社会主義、国有化と計画経済によって特徴づけられる社会主義体制である。そこにおいては、経済活動は盲目的ではなく意識的であり、放恣であるのではなく計画的であるはずである。ソ連の実態を詳しく調べていないが、そこにおいては消費者の自由が全くなかったわけではなくても、かなり制限していたのではないだろうか。食糧などの生活必需品が市場で売られているというよりは配給であった可能性がある。そして、ソ連と東欧の実態についても、イメージや先入観抜きに確かめなければならないのではあるが、そういうかつての社会主義において、配給所とか商店などには長い行列が出来ていたり、物資が手に入らなかったのではないか、ということも検討すべきであろう。ソ連、東欧の社会主義圏が敗北し解体された理由は、沢山あるのだろうが、経済的にいえば、民衆が、その不自由、不如意に我慢出来なくなったというのが大きいのではないだろうか。例えば、当時、ドイツは東西に分断されていた。東ドイツの民衆が、隣国である西ドイツの経済は好調で、国民、市民も愉しそうに暮らしているのに、自分達はそうではない、ということを、日々見せつけられていたとしたら、自国の社会主義体制への不満を募らせないであろうか。現在の北朝鮮朝鮮民主主義人民共和国も同じである可能性があるが、体制が崩壊しそうにないのは、北朝鮮の人民の間での情報流通が厳しく制限されていることと、政府だけでなく警察機構なども含めた治安体制が強固であるからである。

もう一つは、生活協同組合、消費協同組合などである。ここでは消費者、生活者は生協の組合員になるというかたちで組織化される。そこにおける消費は、共同購入である。一定の商品を、地域の組合員で集団で購入するのだ。そして、共同購入で自分の個人的な個別の欲望が満たされないという理由で共同購入を好まない人々もいるし、生協によっては、共同購入という原則をやめているところもある。

生活協同組合、消費協同組合にも19世紀終わりのイギリス以来の長い伝統がある。組合といっても、ここで仮に、労働組合、生産協同組合(労働組合、ワーカーズ・コレクティヴ、ワーカーズ・コープ)、消費協同組合(生活協同組合、生協、コープ)を分ければ、例えば、レーニンはそれぞれの役割をあれこれ考えたと思う。まだ社会主義革命を実行していない資本主義社会では、労働運動、労働争議は必須であろうし、そうすると、労働組合はその闘争の主体である。だが、そういう労働運動、労使関係は、かつてのNAMの用語でいえば、「内在的」である。つまり、それは、資本と労働、経営者と賃労働者、という基本的な関係を変えないのである。むしろそれは、資本家、経営者に労働者の待遇改善を求める運動である。よくただ単なる賃上げ、時短を批判する意見があり、それでは根本的な変革ではない、という人々がいるが、それはその通りなのだが、根本的な変革、賃労働そのものを廃棄するような変革は困難だし、労働組合の闘争の枠内なのか、という疑問がある。

生産協同組合、労働者協同組合、ワーカーズ・コレクティヴ、ワーカーズ・コープにおいては、確かに、それまでのような雇う側と雇われる側という分断・対立はなくなっているであろう。資本と労働、経営者と労働者の関係も大きく変わっている。第一に、そこにおいては、労働者自身が一定額を出資し、自らの出資者、資本家、経営者になるという原則がある。そして、労働者間の関係は基本的には対等である。そこにおいても、管理労働は存在しているが、管理労働に従事する人々が一般の労働者を管理・監督するというよりは、むしろ逆に、一般の労働者の側がそういう管理労働者を雇っているのである。経営者とか役員と普通の労働者の給与の格差も、例えばモンドラゴンでは6倍以内に抑えられている。そういうふうに述べてきたことについて、一部の協同組合運動の理論家は、協同組合における資本は、一般の資本主義、株式会社などのそれとは違う「協同組合資本」なのだといっているし、『第三世界の協同組合論』の石見尚のように、協同組合においては資本制的な価値法則が廃棄される、という論客もいるが、生産協同組合というただの一つの制度、技術、枠組みだけでそうなるのかどうかは疑問である。根本的な問題を指摘すれば、一つの企業、或いはごく少数の企業が協同組合になるとしても、社会の一部でしかなく、その外部には膨大な資本制企業があるのではないか、ということである。それがかつてのソ連型の経済との違いである。マルクスは『資本論』第三巻で、生産協同組合は資本制経済の積極的な揚棄だと述べたが、そうなるのは、その協同組合がひとつの社会のかなりの部分にまで拡大した場合に限られる。

消費協同組合だが、これについて確か、レーニンは学校だとか教育の場というような言い方をしていたと記憶する。私の記憶は正確ではないのかもしれないのだが、とにかく、消費協同組合、生活協同組合、生協、コープにそういう教育的側面があるのは確かである。教育というのはどういうことかといえば、それまでの消費者は、放置されていれば、消費は無秩序で偶然的、思い付きなのだが、少し合理的、目的的、倫理的に消費・購買したほうがいい、ということを教育されるのである。さらに、健康のためには遺伝子組み換えの農産物よりはそうではないもののほうがいいし、農薬をたっぷり使ったものよりは無農薬有機栽培のもののほうがいい、ということも教育される。そういう教育とか啓蒙、私は洗脳とかプロパガンダというような悪意的な言い方はしないが、とにかく、組合員になってくれた消費者に一定の考え方とか価値観を共有して貰う説得、誘惑があって初めて、一定の共同性が成り立つのであろう。

生協の問題をいえば、多くの消費者を組織出来ないということと、資本制企業、株式会社との競争に晒されるということである。現代日本にも生協は沢山あるが、そこにはかなり大きな事業体もあればそうではないものもある。そしてその運営などを巡って、政治的、社会的な論争がある。一部の生協は、倫理的な原則を放棄して堕落した、といわれている。私は、よく知らないし、生協運動内部のそういう論争には立ち入らないが、生協であれば薔薇色であるはずがなく、日本社会全体、或いは世界全体がまだ変革されず、資本主義体制に留まっているなかでの生協の展開だから、あれこれ現実的な困難や障害があるのは当たり前のことである。そして私自身も生協に入っていない。経済的に入ることが出来ないのである。我々一家は、地域のスーパーで一円でも安い商品、半額の商品を買い漁るしかないのである。倫理的消費などといっても、一定程度金銭がある人々しか実行不可能なのは、どうしようもない限界である。そして、余程恵まれた境遇の人々以外は、消費する資金、金銭を確保するためには、それが賃労働であれ自営業であれ何であれ、一定の労働とか生産活動に従事することは不可避である。

それから、今私は芸術作品=商品を考察しているのだが、現状では生協が対象にしている消費財、商品の多くは食糧であり、取り組んでいる主要な問題は食の安全だということがある。文化的なコンテンツや情報財を対象にした生協的な運動、共同購入、消費の組織化の試みなど聞いたことがないのだ。だが、私はそれは可能だと思う。いきなり、法律的な意味での消費協同組合、生活協同組合にしなくれてもいいが、まず、ファンクラブとか音楽愛好団体、ジャズ愛好団体を立ち上げ、そのなかで一定のCDやライヴのチケットなどを販売すればいいのである。そこにおいては、そういうファンクラブの関心は一定程度共有されているはずである。例えば、ジャズのファンだとか、或る特定のアーティストのファンだとかいうふうにである。そういう人々に情報を流すことは、無前提的にありとあらゆる人々に向けて広告を打つよりも、遥かに効果的なはずである。なぜならば、ただ単なる広告は、それを見るのがどういう人々か特定出来ないからである。現代の資本主義的な広告産業は、不特定多数の人々に向けられる。例えば、TVのコマーシャルにしても、それをどういう視聴者が観ているのかは不明である。だが、そういうものがサブリミナル効果、或いはそれに限らない技術的な効果によって人々の主観性を形成するということは十分考えられるし、そうなっていると思う。

組織化のみっつめの形態が、マーケティング、広告産業である。現代の先進資本主義諸国において、多くの場合、個々の消費者の消費は、店舗に設置されたコンピューターなどで監視され、データが蓄積されている。現代世界、資本主義社会での消費は、匿名的であるところに特徴があるが、それでも、そういうコンピューター管理、顧客情報管理においては、属性レヴェルまでは特定出来る。つまり、ジェンダーとかセクシュアリティ運動の文脈では、見た目と性別は違うのではないか、ということにもなるのだが、それは措いておいて、とにかく見た目の性別、それから大体の年齢層までは特定されるのである。そしてそういう消費者が、いつ何処で何を購入したのか、というような情報が記録・蓄積され、本社のコンピューターにデータが送信される。本社では、各店舗から送信されてきたデータを分析、解析して、今後どういう商品を何処で展開していけばいいか、という戦略を練り、実行する。例えば、コンビニエンスストアが全部そうなっているし、それはコンビニだけでなくそれ以外の商店でもかなり広く採用されている方法、手法、技術であろう。

それは、資本主義化の極端な徹底であるとともに、かつての社会主義的な計画経済への接近でもある。生協にも似ている。違いは、個々の消費者を組合員として囲い込まないだけである。その場合でも、例えばポイントカードを発行し、消費者をその会員にすることで囲い込もうとしている。ただ単にポイントカードを使うだけなら、消費者の個人情報が何処まで必要なのかといえば、それほど必要ではないだろうが、そのポイントでごく僅かであれ値引きの可能性があることが、その消費者、顧客がまたその店舗で買い物をしてくれる誘引とか動機になる。

資本主義化の徹底というのは、通常の自由主義的な資本主義においては、その深刻な危機とか問題性は売りと買いの分離、分裂、分断だからである。生産者とか事業者と消費者の間に横たわる深淵を埋め、消費者の消費・購買行動を予測出来るものに変え、確実に利益を確保する、というのが、現代のマーケティング戦略、経営戦略の基本である。どんな商品であれ、もし売れなければ価値は実現されない。価値が実現されなければ、その経営体、事業体、企業、商店には利潤は上がらない。儲からなければ存続出来ない。そういう企業の存続という極めてシビアな問題が、資本主義経済社会では、個々の消費者、群集的で匿名的なありようをしている多数者としての消費者の恣意とか気分、偶然的な欲望に依存、依拠しているのであり、それを経営科学的に何とかしようという試みが続けられている。勿論、そういうことによって消費者の心理に一定の影響を与えることは出来るだろうが、それでも、資本主義においては、少なくとも理念とか建前においては、消費者は自由である。自由な選択が出来る主体だとみなされているのである。消費者は全知ではなく、判断に必要な全ての情報など持っていないという点で、それは欺瞞であり神話だが、とにかく、経済活動の主体は自由であるはずだ、というのが、資本主義社会のイデオロギーである。だから、そういう自由な消費こそが、資本制企業の限界だし、存立できるための条件、制約なので、どういうふうに消費・購買を確保するか、それも集団的、集合的に確保するか、多数として確保するか、というのが、一番重要な問題なのである。