群集、共同体。

私が興味があるのは、個人主義は近代の建前だが、人間はただ一人では暮らしていけず、社会に住んでいるが、その社会がどういうふうに具体的に構成されているかをみれば、別に、自立した個人の自主的な判断によってそうなっているわけではなさそうだ、ということである。建前、或いは擬制(fiction)としてであれ、個々人の同意、合意は必要である。それは労働契約の場合だけでなく、政治・選挙もそうだし、或いは消費・購買もそうである。もし我々が自由な労働者であるとすれば、それは、奴隷的苦役、強制労働をさせられていない、という意味である。だがそれでも、生活しなければならない以上事実上選択肢などないのではないか、という批判があるのは当たり前である。

選挙で何処の政党の候補者に投票するのも、或いは、街頭の抗議行動やデモなどに参加するのもしないのも個人の自由である。だが、重要なのは、少なくともかつての日本には中間項、媒介が確かにあったということで、それは例えば労働組合、それも大きな労働組合である。現在においてさえも、労働組合は、共産党社民党民主党の支持基盤だが、かつてと意味や役割、力は同一ではない。むしろ凋落しているであろう。では、どうしてそうなったのか。

一つには、小泉純一郎などの新自由主義者、はっきりいえば右翼・保守派による切り崩しが成功したからである。小泉は彼にとって都合が悪い既存の団体に全部、抵抗勢力だ、自分の改革を邪魔している、というレッテルを貼り、非難した。そして当時、多くの有権者、国民がそういう小泉の虚偽を信じてしまったのである。だが、小泉内閣の中心人物であった竹中平蔵は、彼ら自身の権力を保障してくれていたそういう有権者連中に、「B層」、つまり宣伝次第でどうにでもなる愚民という差別的なレッテルを貼り付けていたのであった。

もう一つは、拘束とか不自由を嫌う一般的な雰囲気である。現代、というよりも、恐らく1970年代くらいからずっと、組織とか集団、団体への日本人のイメージは頗る悪いのである。例えば、先日、代々木公園だから大規模な脱原発集会、17万人が参加した集会があったが、TVなどの報道でニュース・キャスターが現地のリポーターに質問していたのは、そのうちのどのくらいの割合が団体動員で、どのくらいが個人参加なのか、ということで、リポーターは8割くらいが団体動員だと返答していた。

団体から動員されていて、一体何が悪いのだろうか。私はそう思うが、個人が自由な自分の意志で参加するのはいいが、労働組合とか政党などに動員されるのは集団主義だから自由がない、というのが、大方の意見なのである。そういうふうに組織、集団、団体が忌避されてきているわけだが、私自身も集団など嫌いだが、考えてみたほうがいいのは、政治であれ経済であれ、抽象的な個を想定してみても、その力は極めて小さい、ということである。ただの個人は、デモにおいてはただの一人、選挙においては一票、市場においては若干の貨幣を所有し支払う、といったことでしかない。それが社会的に有意義な力になるためには、別にファシズムに賛同するわけではないが、「束」にならなければならない、束ねられなければならない、それにどういう方法とか技術があり得るのかまでは私は全部洞察していないが、一定の仕方で組織化されなければならないのである。

もう少しいえば、近代社会における人々の「束」については、その結び付き、絆が、美的、想像的、感情的な次元であることが重要である。つまり、団結などは別に強制されるような筋合いのものではないのである。個々人は自発的に賛同するわけだが、では、どういう経緯で、どういうふうにそうなるのか、というようなことだ。ナショナリズム、ネーションが想像の共同体だといわれるが、そういう想像物、かつてであればイデオロギーといわれたようなものは非常に沢山ある。例えば、芸術作品は美であるといわれるが、それは同時に仮象なのではないだろうか。そして、芸術やその類似物(例えば、民芸)などを通じても人間の一定の集団性が構築されるのは確かである。古代社会や未開社会においては、芸術それ自体などなく、祭りとか芸能は、宗教や労働などと深く結び付いていた。別に古代とか未開社会でなく、ほんの少し前、近世を振り返っても、民芸・工芸などがあったし、当時の様々な文化、例えば和歌や俳句などは別に個人主義的な芸術などではなかったはずである。そして、俳句にしても、孤独な個人が作るものではなく、共同体が前提であった。江戸時代なら江戸時代の文化が、具体的に、社会的、経済的にどう成り立っていたのか、ということも、もし調査するならば興味深い問題である。

それはともかく、近代的な意味、ここではカント、ヘーゲル以降の意味での芸術作品とその美があるが、その外部に、民芸・工芸などの生活や労働と一体になった美がある。そして、現代世界においても、例えばインド映画は、我々の多数が芸術と思うようなものとは違っている。それは、芸術、美の概念が、時代、地域、文化に依存しているし、本当に多様なのだということだが、そういう相対主義とか多数多様性を承知しておいたうえで、では、我々自身の生きる現代日本の社会、その文化はどうなのか、ということを考える必要がある。