消費と啓蒙

暫く考えていたが、憂鬱にならざるを得なかった。私は、資本主義は素晴らしいとか、マーケティング万歳という立場ではなく、むしろ逆である。だが、資本制市場、商品社会からの出口、それの外部など見当たらないのである。それが抑鬱の理由である。

人間は遥か昔から、そもそも人間、人類として出現してきたときから集団で暮らしてきた。二十世紀以降、二十一世紀の我々にとっても、集団、共同体、社会などは決定的に重要で、それなしには生活が成り立たないようなものである。だが、近代、現代の経験には一定の特異性があるであろう。

二十世紀以降資本主義が深化し、帝国主義といわれる段階に突入したことは明白だし、そこにおいて金融がますます重要になってきたことは確かであろう。市場はありとあらゆる意味で拡大し、十九世紀のマルクスが予言した世界市場というものがリアリティを持つようになってきた。商品化されないもの、貨幣で価値付けられないものはどんどん減ってきた。文化人類学的、民族学的、民俗学的世界、つまり、資本主義の外部とか前近代などは絶滅しつつある。インドでさえも資本主義が浸透しているし、マサイ族も携帯電話のインターネットで家畜の市場価格をチェックして最適な経済行為を選択しているのである。それは確かに凄いこと、驚くべきことだが、世界は一体どうなってしまうのか、と心配である。

私の見方では、所謂近代化とか資本主義の拡張ということと結び付いて、文化的に決定的に重要なのは、ベンヤミンが注目したような複製技術である。複製技術によって、大衆文化、消費文化が可能になるのである。ベンヤミンだけでなくマクルーハンが注目した印刷・出版もそうだが、パピルスとか羊皮紙に文字が記されていた段階では、書かれたものが大量の人々、一般の人々に普及することはできなかったであろう。複製され大量に出回ることで初めて、大衆文化状況が出現するのである。

近代の日本、明治、大正、昭和初期を考えると、そこにおける知識層、例えば、旧制中学、旧制高校帝国大学などを考えると、彼らの多くは、複製技術(出版、或いは美術でいえば画集)、SPレコード、劣悪な翻訳を通じてヨーロッパの文化に触れていたと思われる。だから駄目だというわけではないが、我々の近代性の条件は、複製及び翻訳なのである。そうすると、教養を幾ら自慢してみたところで、戦後とか消費社会以降の我々だけでなく、戦前の知識層・教養人達さえも大したことはなかったのではないか、と思うのだ。

1945年の敗戦、朝鮮特需、ベトナム特需を契機にした経済の回復、高度経済成長などを通じて、大衆社会、消費社会はどんどん進展する。社会制度的にみても、中学校までは義務教育だが、高等学校、さらに大学にも希望すればほぼ全員が進学するようになり、大学院の敷居も一時は下がっていた。それは民主化だし、キェルケゴールの批判的な表現では「水平化」だが、一部の特権階級だけが文化に触れていた十九世紀よりはましなのだろうが、色々と問題もある。

社会学的、社会科学的にそれほどしっかりとした根拠がある概念なのかどうかは素人である私には分からないのだが、とりあえず「公衆」という概念を設定してみよう。それは、マルクス主義の伝統が考えるプロレタリアートとも吉本隆明がいう大衆とも違い、また、二十世紀以降の経験を決定的に特徴付ける群衆とも別である。

私が言いたい公衆というのは、まず、理性的な対話とか議論ができる人々、ということである。一定の文化的素養とか教養を持っていることも期待されるし、様々な芸術にも接していることが望まれる。十九世紀終わりのヨーロッパにそういう人々が本当に存在していたのかどうかは私は知らない。そういう理念がかつて本当に現実にあったのかどうかは確かめる方法がないが、とりあえず想像とか思考によってそういう存在を措定してみる、ということである。

そういうふうにものの分かる人達、判断力とか見識、美意識がある人達の一定の層を想定しなければ、例えばアドルノの文化的で芸術的な理想は成り立たない。つまり、資本制市場とか商品経済、商業主義とは相対的に別箇の芸術とか美学、例えば、古典ならベートーヴェン、当時(現代)なら新ウィーン学派などである。アドルノのジャズ批判が外面的で雑駁だということはとりあえずどうでもよく、彼の批判の理由が商業主義であったことを知れば十分である。現代の我々の問題は、芸術とか、或いはもっと広くいえば文化が商業主義に還元されてしまうのかどうかということである。

何が文化を支えるのかというのは、時代によって、また地域によって違うが、かつてのヨーロッパを考えてみれば、まずそれは、王侯・貴族であった。次いで、大市民、つまりブルジョアジーが前面に出て来た。日本語で「タニマチ」というのもそういう意味でのパトロンだったと思う。そして、二十世紀以降の我々の経験というものは、膨大な数の群集、消費者が購買行為を通じて間接的にアーティストを支えているというものである。

注意深くみれば、それは、まず資本主義化の徹底及び複製技術がなければ成り立たない状況である。また、私が先程理念的に想定した「公衆」という枠組みもそこでは崩れている、或いは、無効化している。そういう匿名的な消費においては、優れた判断力などを前提することができないのである。我々が知る限りでは、ポピュラー音楽だけでなくクラシック音楽でさえ、アーティストの外見・容姿・ルックスが重要になってきているそうだし(それは所謂「ジャケ買い」があるためである)、『のだめカンタービレ』などのTVドラマの影響も大きいとのことだが、演奏家を見掛けで判断し、『のだめカンタービレ』に影響されてCDを購入する消費者は、別に音楽通ではなく、クラシック音楽に事実上無知だと思われる。そういうことはクラシックだけではなくジャズでも成り立つであろうが、それ以外のジャンル、例えばロックとかJ-POPにもいえるかどうかは分からない。

そういう大衆社会、大衆文化を嘆いても仕方がないし、ましてや讃美すべきものでもない。事実を確認すべきなのだが、そこにおいてはかつてのアドルノのような高踏的な理想が成り立たないのではないだろうか。そのことの意味を問い直せば、資本主義経済の外部が成り立たないのではないか、ということだし、大多数の芸術作品が商品であるということだ。もはや、芸術家を支えているのは、王侯・貴族、大市民(はっきりといえば富裕層)などではなく、匿名の群集、多数者、消費者なのである。そういう消費者は顔も名前も分からず、統計などを通さなければ知ることができず、彼らの行動・選択には恐らくそれほど合理的な動機はないし、美学・美意識などの根拠もないと思われる。彼らが一回の購買で使う金銭は多額ではなく少額である。例えば、一枚のCDには十万円などの値段は付いていない。安ければ1500円だし、普通は2000円、高くても3000円ちょっとである。ただそれだけの微小な消費が「束」になれば、一定の経済的効果になり、レコード会社やアーティスト本人を潤すのである。

かつて吉本隆明は素人の時代と言っていたが、彼としてはそれはいいことだという評価だったのであろう。確かに現代社会、1970年代、1980年代以降の社会、特にWindows 98が発売され、インターネットが普及して以降、さらに、YouTubeとかUstaream、ニコニコ動画が一般的になって以降は、表現への敷居は大幅に低くなったし、消費とか享受についてもそうである。最早誰でもが表現者なのである。ちょっとした知識人でもあると言ってもいい。誰でもブログとかTwitterに書いているし、ウェッブサイトも創っている。私も少しやっているが、自分のパフォーマンスをデジタルヴィデオカメラで撮影して、YouTubeニコニコ動画、デイリーモーションなどにアップロードしたり、或いは、Ustreamスティッカムなどで生放送を配信することもできるであろう。映画を撮影できるのは一部の人々だったし、TV番組を制作したり、出演したり、放映できるのも限られた人々であった。現代のインターネットはそうではない。誰でも発信できる。しかしながら、別にユートピアではない。というのは、そういう無名の人々の表現を、一体誰が好んで観るのであろうか。生産者と消費者、表現者と聴衆という二分法をとりあえず考えてみれば、もし、誰も読んだり視聴してくれる人々がいなければ、その表現行為は無意味なのではないか、と考えられる。アドルノの比喩、よく引用されるしドゥルーズとか浅田彰も言及していた比喩でいえば、投瓶通信のようなものもあるが、宛先が不明なメッセージを発信し続けるという営みは、さて、どうなのだろうか。

消費とか享受、享楽についても、昔ながらの専門的な批評家、美学者、ファン、「通」などがもうほとんど成り立っていないのではないか、と推測できる。民主主義的になり、自由に解放されたということは、誰でもが勝手気侭にどんな対象でも選択し、自分流に愉しめるということを意味する。例えば、ジョン・ケージの音楽を理解するには、一定の前提とか手続きが必要なのではないかと思うが、そういうことを全部飛ばし省略して、いきなり彼のプリペアド・ピアノを聴くこともできるのである。そしてそれはケージに限らず、ありとあらゆる文化的対象がそうであり、哲学史とか思想史に完璧に無知な人々が、ニーチェなりドゥルーズから読書を始めたりしている。その結果、当然、わけが分からなくなり混乱したり、自分勝手な恣意的な読み方になってしまう。それは遺憾かもしれないが、我々の現在の政治的、経済的、文化的状況からすれば必然なのである。もはや、かつてのような選良は成り立たないし、そういうものを懐古すべきでもないのである。消費社会は薔薇色ではなく、文化の死、終焉、衰弱を意味している可能性が大きいが、そのなかから何かを汲み取らなければならない。

私がいつも思うのは、消費協同組合を学習の場と捉えたレーニンのことである。消費の組織化というのは、別に生協に加入するかどうかという外面的なことではなく、対話という次元を導入することである。対話、そして熟慮ということだが、そういうものの導入は時間的な遅さの導入である。「啓蒙」という単語は矮小化されて理解されており、十八世紀のフランスの思想家とか知識人が考えていたのは全く違う内容だったそうだが(「啓蒙」といっても、フランス人とカントでは意味合いが異なり、二十世紀のアドルノとホルクハイマーではまた異なり、フーコーの晩年でもまた違う)、とにかく、上からの啓蒙は無理だし、さらに、レーニン主義的だと一般に思われているイデオロギーの外部注入も不可能であろう。大多数の人々はそういう「上から目線」の振る舞いには敏感だし、拒絶するからである。だから、とりあえず少し対話してみる、議論の空間・時間を開くということくらいしか現実的には可能でないのだが、ちょっとまともなコミュニケーションを確保しなければ、我々はいつまで経っても、有権者としても消費者としても、マーケティングなどの経営学の知、民衆とか他者を操作する心理学の知などの思うがままの都合がいい存在に留まる。とりあえず話してみて、一体何が出て来るのか、どういうオルナティヴがあり得るのか、といったことは、私には全く分からないが、このまま、匿名的で顔も見えず、有意味で理性的な言葉も交わされない状況、人々がただ単に「束」に束ねられているというファシズム的な状況が進行していくのは、非常に良くないことだ、とは思うのである。