ニーチェ右派、ニーチェ左派

Facebookで哲学研究者のHさんが、ニーチェ読みにはニーチェ右派とニーチェ左派がいる、という意見を書いていた。彼によれば、左派はニーチェから系譜学的な方法論だけを取り出して内容については禁欲するが、右派は「超人」、「畜群」などの概念の内容に拘泥し、そこで躓いてしまうのだという。

内容を捨象して形式だけ抽出するというのは、現代において非常によくある身振りである。ありとあらゆる著者についてそれは可能だ。スピノザニーチェレーニンなど、誰についてもそういう操作を施すことができ、結果、これまであり得なかった奇抜な「読み」が幾らでも出て来る。

勿論、私はそういう読みには懐疑的であり、そういう読み方はしない。書いてあることをそのまま読む、というのが私の流儀だ。内容を残すならば、どんな著者であれその人が生きた時代に拘束されており、制約や限界があるということになるが、それも致し方がないことだ。私は「可能性の中心」を読む、というような読解はしないのである。

ちなみに、内容を度外視して純粋な形式だけを抽出する、というタイプの読みを始めたのは、私の意見では、『純粋理性批判』の二律背反(アンチノミー)論におけるカントである。現代の継承者は、『哲学について』のアルチュセールである。