弁証法について

"Oscar Peterson Plays The George Gershwin Song Book"を聴いている。

大本薫さん(sunamajiriさん)が「意見から理念に転回する国語教育」というtogetterを創ったそうである。
http://togetter.com/li/378597

彼女の論旨は私にはよく分からないが、意見と理念、個別性と一般性についての弁証法的な関係を吟味したほうがいいと思う。弁証法、dialecticとは元々対話のことだが、廃棄したほうがいい複数性もあるとしても、当面は我々は対話を逃れられないのである。

上述の弁証法的な関係というのは、まず、個人の意見などはどれも恣意的で偶然的な果敢ないものでしかない、ということ、及び、どれだけ独自に発想しようとしても、既存の一定数のパターンのいずれかであるほかなく、全く未知・未聞の事柄を考えるといったことが極めて困難だということを基本的な事実として押さえるべきだ、ということである。個人の自由、多様性、個性、独創性などがイデオロギーでしかない、という非難は常にあるが、それが妥当である部分とそうではない部分を見極めなければならない。

妥当ではない部分というのは、現実にはいかなる理念も具体的な個々人によって担われるしかない、ということである。どれほど合理的にみて妥当な理念であろうと、正しかろうと美しかろうと、ただそれだけの理由でどんな理念も直ちにこの世に実現していない。もしそうなら、人権という発想が出て来た段階で直ちに女性の権利は全て保障され、その後永久にそれが維持されているべきだが、現実にはそうなっていない。また、戦争で被害に遭えば死ぬこと、原発事故の放射線を一定量以上に浴びれば死ぬことは誰でも同じであり、景気循環や恐慌のネガティヴな影響を蒙るのも大多数の人々にとっては共通の条件だが、戦争、原発、産業資本主義のかなりの部分が手つかずだし、それを変えることを望まない人々も一定数存在している。

つまり、「常識」(ダグラス・ラミス)になっていなければおかしい価値観や考え方を万人が共有していないということだが、そこには、一部の人々がそれ以外の大多数とは利害が異なるという利権の問題もあれば、大多数の人々が自らの利益にならない政策や方針を支持してしまう、という問題もある。

理念など一切信じないというシニシズムニヒリズム、理念しか信じない理想主義・観念論があるが、敢えて「現実」という表現を用いれば、それは理念と具体性、個々と普遍の間の極めて微妙で複雑な関係で織り上げられており、力関係の綱引きが不断に展開されている場である、というしかない。