朝シャワーの楽しみ

開始は任意で構わない、というヘーゲルを私が好むのは、私自身がどんなことでも片っ端から忘れるからである。それだけではなく、たとえ忘れていない場合でも、複数の考えを実際に書くときに、どういう順番、秩序でそうすればいいか分からないからである。だが、ヘーゲルを信じて、何処から始めようといずれ円環になる、と思っておけば、一安心である。

そうすると、とりあえず、朝のシャワーが気持ちがいい、というところから出発してみようか。私は早朝、非常に早い時間に目が醒めるが、すぐに起き上がるわけではなく、ベッドのなかでぐずぐずしている。暫くして起きてきて、ゆっくりとシャワーを浴びる。それが気持ちがいい、ということだが、当たり前だが、湯とか水などが身体の表面、皮膚に当たるのだし、そういう物理的な身体感覚が快適なのである。そういうものは時間を掛けて味わうほうがいい。

そういう身体的で表面的な快楽に留まることは重要である。そういうことで私が思い出すのは、岡倉天心の『茶の本』だが、重要なのは何もお茶だけではない。専門的な茶道だけが問題であるわけでもないだろう。近代の西欧において重要視されてきた芸術とか美、それらと対比され、低く評価されてきた身体的な感覚。その中間領域が膨大にあるのではないだろうか。芸術、美などと肩肘を張らないが、ただの生理的満足だけでもない、というようなものが。お茶もそうだし、そういう些細・瑣末な楽しみ、人間の文化的な楽しみが、非常に沢山あるのである。