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どの著作でだったかは忘れたが、ヘーゲルが、出発点は任意でいいのだ、という意味のことをいっている。どうしてかといえば、彼の意見では、何処から出発しようと、認識を進めていけば、必ず円環になるからで、そうすれば、最終的に同じことだからである。だが、そういうヘーゲル自身を検討すれば、それほど任意にいい加減に出発しているようにはみえない。むしろ、「端初(端緒)」の問題には非常に気を遣っていたのではないだろうか。『精神現象学』では「感覚的確信」、『大論理学』では「存在(有)」だったと思うが、最も直接的で、故に無内容なものから始めるようによく考えられていると思う。

私がそういうことを考えたのは、いつもそのことを考えているからではあるのだが、何か書こうと思っても次から次に忘れてしまう、ということが理由である。そうすると、どういう経路で或る考えに至ったのか、自分で全く理解不能になって困惑するのだが、上記のヘーゲルの意見を信じるならば、仮に何処から任意に出発しても最終的に円環になるのだから安心だ、というようなことである。

それはそうと、私は2時間ほどベッドに横になって休んでいたのだが、死んだように寝ていた、といっても、別に眠ったというわけではない。ただぼんやりうつらうつらしていたのだが、一つ考えていたのは、今朝4:00に目が醒めてデモについて考えたのだから、首相官邸前の抗議行動に行ってみてもいいのかもしれない、ということと、やはりどうしても金銭がなく体力も乏しい、ということである。それから、頭皮が酷く気持ちが悪いことである。脂分が多く、ふけが多いが、それだけではなく傷だらけで気持ちが悪い。朝にマスターベーションをしようとしても出来なかった、ということも思い出した。明日彼氏と会うのだからそれでもいいかもしれないと思ったが、別に彼と会ったからセックスが出来るかどうかも分からず、ただ、牛角で食事をしようということだけは取り決めている。

さて、飛躍があるのかもしれないが、私が考えたのは、『批評空間』誌のバックナンバーで、オウム真理教地下鉄サリン事件を仏教原理主義でありファシズムだ、という意見が提出されていたことである。柄谷行人の意見だったか浅田彰の意見だったか忘れたが、私には細かい異論がある。

どういうことかといえば、オウム真理教は確かにテロを実行したが、国家権力を握っていないし行使していない、ということである。国家権力を握っていないただの個人や団体の「ファシズム」とは何だろうか。宗教の原理主義とかファシズムという場合、吟味したほうがいいのではないかと思うのは、例えば、ヨーロッパの知識人がよくいうように、イスラーム革命、イラン革命イスラーム復興運動なども全部原理主義ファシズムだという意見になることである。

だが、かつて存在したファシズム、ナチズム、日本の軍国主義と、オウム真理教は分けて考えなければならず、さらにイランの現在の体制もそれはそれで別箇のものとして捉えなければならない。イランを単純に肯定も否定もできないのである。

それから、オウム真理教が仏教原理主義だとかいう話は本当であろうか。例えば、オウムの幹部であった上祐史浩さんもそういう考えである。彼のオウムの反省は、仏教原理主義だから良くなかった、間違えた、テロリズムに走った、ということである。そういうところから出てくる上祐史浩さんの現在の「ひかりの輪」の実践は、ありとあらゆる宗教を参考にし、取り入れるというシンクレティズム、諸教混淆である。

別に上祐史浩さんの現在とか「ひかりの輪」を批判したり非難したいわけではないのだが、私の疑問は次のことである。まず、元々オウム真理教はそれほど仏教原理主義ではなかった、純粋な仏教などではなかったのではないか、ということである。仏教に「ハルマゲドン」という思想があるのだろうか。それはキリスト教の『黙示録』に由来する観念なのではないだろうか。そしてヘッドギアなどには近代的な科学・技術が大胆に取り入れられていた。サリン製造とばら撒きなどもそうである。そこにみるべきなのは、人間の精神や身体を技術的に簡単に操作できるのだという非常に近代的な発想なのではないだろうか。オウム真理教の修行システムを合理主義とはとてもいえないだろうが、一定のテクニック、エクササイズで悟りなどの境地に到達できる、というインスタントな発想があったのではないだろうか。

もう一つは、現在の「ひかりの輪」などが多数多様な宗教的信仰、仏教だけでなくキリスト教神道イスラーム教、ヒンズー教民間信仰その他を取り入れて多様化し、原理主義、過激主義、偏向を排除しようと努力しているのだとしても、宗教であるということには変わりがないから、その点はどうなのかということである。

それから、上祐史浩さんはそういう宗教だけではなく、例えば徳川家康なども非常に参考にしているが、そういうことで私が想起するのは内村鑑三の『代表的日本人』で、そこにおいて取り上げられている人々も、徳川家康など、キリスト教とはまるで関係がない人物ばかりである。内村のテキストにしても、それはそれでいいのだろうが、その意味、効果などはどういうことなのか、と考えさせられる。