福祉を巡って
フーコーの権力論を称賛する人々に疑問なのは、福祉国家批判や新自由主義への親和性を無視することであり、フーコーをマルクス主義に接続したり、新自由主義批判と結び付けることは容易ではないはずなのだが、そのことが考慮されない、ということである。彼のミクロ権力、生権力という考え方は、従来の権力観とは違うものだが、その従来の権力観にはサルトルとか、権力=悪という通念だけでなくマルクス主義も含まれていたはずだ。
それはともかく、我々が「思想」についてどう考えようと、実際には福祉の重要性を無視することはできない。宮本太郎氏(『生活保障』、『福祉政治』)は現代日本の代表的な論客であるようだ。生活に困窮した層が存続する限り、つまり、事実上半永久的に、国家による再分配が重要な論点であらざるを得ないが、宮本氏はベーシックインカムとも異なるアクティベーションという考え方を紹介しているが、それは、スウェーデンの社会福祉制度を参考にしているが、BIよりも就労支援に力点を置いているようだ。だが、制度的に実現すればどうなるのか、ということはちょっと分からない。
ただ、ベーシックインカムをどう見るのかはともかく、我々は財源問題と国民の多数の合意・支持という論点を無視できない。つまり、社会福祉、社会保障の財源はどうなのか、ということと、政府支出を国民の多数が正当なものとみなしてくれるかどうか、ということである。宮本氏がアクティベーションを提起するのも、BIには財源問題、人々の同意という問題でハードルがあるからだろう。
それはそうと、フーコー権力論の問題、全体的なものと個別的なものという問題を思想史的にみれば、18世紀のルソー、また、19世紀のヘーゲルとキェルケゴールに遡るが、要するに一般性とか全体性という思考が個別性を疎外してしまうから、後者の次元がまた違ったありようで回帰してこざるを得ない、という問題性である。
ルソーは『社会契約論』を書き、市民、公民を称賛し、社会契約によって特殊意志が一般意志へと譲渡されると説いたが、完全にパブリックになり切れない「私」性が後年、『告白』、『孤独な散歩者の夢想』などの文学として回帰してくる。それは近代の裏面である。また、「真理は全体である」というヘーゲル主義にキェルケゴールの単独者の思想が抗議する。20世紀にはそれはマルクス主義と実存主義というかたちで変奏され、そして、両者を和解させることは遂に不可能なのである。
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