集団性を巡って

少し整理してみると、Ustreamとかはてなダイアリーで8月くらいまで考察していたのは、集団とか組織化の問題だったが、別に妥当な解決を得たからではなく、とりあえずそれ以上考察を進めることが難しくなったからその後放置しているのである。それは現代(20世紀以降)における社会のありようということだが、政治的には民主主義、経済的には資本制市場ということになる。そこにおいては、匿名で無数(膨大)の人々の一定の組織化や集団的な次元が問題になるが、どういうふうになっているのか、ということが考察の主題であり、一定は検討してみたと思うが、さらに具体的には、例えばマーケティングなどの詳細に入っていなかければならず、それは私の領分ではないと判断したのである。

近代、現代の社会について指摘すべきは、まずその成員の数の多さという端的で素朴な事実であろう。そこにおいては「顔が見える関係」は成り立っているのだろうか。数万人、数千万人、一億人以上の人々の間でそういうものは難しいだろう。そこから、国家や社会などから、市場、またメディアなどについても、大衆や群集という次元が重要になり、代表ということをどう捉えるのか、ということが問題になる。

代理や代表ということはよく批判される。誰かに代理されるとか、誰かを代表するのではなく、自ら語るべきだというのである。だが、日本であれば一億三千万人とか、世界全体でいえば三十億人などが全員一挙に発言し出した状態を想定してみれば、そこにおいて誰がそういう全部の声に耳を傾けるのか、そんなことは端的に不可能だと気付くだろう。様々な理論や理屈以前の現実として、「そこまで数が多いありようを、完璧に把握するのは誰にとっても不可能だ」というしかないのである。

従って、オルタナティヴをどう構想するとしても、政治的には代議制、経済的には市場、文化的にはマスメディアは一定は効率がいいシステムなのだと思える。一億人以上が集結して話し合うことは不可能だが、議会に選ばれた数百人が話し合うことはできるし、また、彼らが提示する幾つかの選択肢を、議員以外の我々は選挙などを通じて選択できるはずだからだ。また、フェアトレードや産直、生協などの一部例外を除いて、市場とかそこにおける購買・消費において、顔が見える関係とか、実名ということはさほど問題にならない。後者におけるクレジットカードは少し問題だが、それはともかく、我々が通常商品を購入するときに、金銭に名前など書いていない。我々はただ単に貨幣所有者であればよく、それ以上の条件や要素は全くどうでもいいものとして捨象されるのである。

たまに投票と消費が類比されるが、その類比に意味があるとすれば、それはそのいずれも《数》が問題であり、顔が見えるとか、名前を書くとかいうことが問題ではない、という事実である。20世紀以降はそのことが根本的に重要だったと思えるが、幾つかの端的で顕著な出来事や指標を指摘するだけで十分だろうが、1930年代には世界は、ファシズムスターリニズムアメリカニズムなどによって成り立っていた。ファシズムの語源のファキウスというのは束というような意味で、人々を様々な仕方で、例えば感情的に《束ねる》ということだが、そこにおいて束ねる・束ねられる仕方が問題だし、そこにシビアな権力とか支配、統治の支配があることは自明だし、また、スターリニズムが何よりも怪物的な政治権力、統治権力の問題だということも明白である。アメリカについては、20世紀の(世界大戦でイギリス帝国が没落した後の)ヘゲモニー国家として重要だし、政治的、軍事的に圧倒的な力を行使してきているだけでなく、そこにおける資本主義の飛躍的な発展も重要であろう。

ただ、それは別に20世紀になっていきなり生じてきた現象ではなく、19世紀以前からもそういう次元はあったと思われるが、それほど重視されていなかったということであろう。例えば、19世紀のヨーロッパの理想は個人、人格ということであり、また個性ということだったが、そこには文化的な陶冶が求められ、事実上、一定の社会的身分、一定の経済的保障が条件となっていた。19世紀の知識人が擁護しようとした個性は、事実上高度な教養を持ち合わせたごく一握りのエリートの個性だったように思えるのである。他方、当時から膨大な数の貧民や労働者が存在していたが、彼らの主観性なり感情などが顧慮されることはほとんどなかったはずだ。

近代の民主主義や資本主義などの現実が、ルソーその他の社会思想の起源とはかけ離れたところで展開していくと、当時の思想家、例えばジョン・ステュアート・ミルトクヴィル(私は彼をそれほど知らないが)、毛色が違うところではキェルケゴールなどは、多数者の専制、多数者の暴政、大衆(衆)、水平化などを危惧するようになった。それは要するに、個性が圧殺されるということだが、その個性とか人格などというものが一定の唯物的で社会的な条件でしか成り立たないことは明白だし、20世紀以降どうなったのか、ということであろう。さらに19世紀から17世紀に遡行すると、当時の社会思想家は、現代のネグリ=ハートやパオロ・ヴィルノがいう多数者(マルチチュード)を端的に恐れていた事実が分かる。ホッブズスピノザの社会理論は全く違うが、膨大な多数者の力を恐れていたり、深刻な不安を抱いていたのは確かだし、その恐れには十分な現実的根拠があった。ホッブズであればピューリタン革命以降のイギリスの社会的な混乱、スピノザであればデ=ヴィッド兄弟の虐殺などである。また、マキァヴェッリモンテーニュなども人間、民衆の集団的な次元について、それは狂気が通則である世界だ、と警告していなかっただろうか。確かに、大多数の人々が理性的、或いは倫理的、または審美的に振る舞うのかどうかということは、今日も依然として問題であり続けているのである。