2012-07-01から1ヶ月間の記事一覧

言葉と制度

アレン・ギンズバーグの父親も詩人だったが、アカデミックな詩人、文学研究者であった。ギンズバーグはそれに反撥して彼自身の『吠える』を書いたわけだが、そういうビート・ジェネレーションの作品が良いか悪いかはともかく、近代日本にも類似した問題があ…

詩の言葉を巡って

「生活詠」の短歌について言及したが、それを詠んでいるのは膨大な生活者の群れである。彼らが実作した短歌が後世に遺るのかといえば、それは厳しいと思うが、幾つかの他のありようと比べてみたほうがいい。例えば、1950年代のアメリカのビート・ジェネレー…

ハイデガー、ニーチェ

ハイデガーの基本的な歴史の把握は、ニーチェと似ているが、プラトン以来決定的な変化が生じ、それがニーチェにまで継続された。ニーチェにおいて形而上学は完成された、というものである。その結論部分が、ニーチェ自身とハイデガーでは全く異なる。確かに…

技術、合理性

私はハイデガーに詳しくないが、自分が知る限りのハイデガーの考え方を要約すれば、彼は「技術」(テクネー)を重視する、ということになる。「組み立て」が具体的にどういうことかという中身はよく分からないが、彼にとって「技術」の本質は「組み立て」で…

「信」を巡って

私が言いたいのは、伝統的な哲学とか形而上学は神、神々などを想定してきたが、もし、そういうものが世界にいきなり介入してきて、例えば自然法則さえも変更してしまうのでないならば、それは想像的な次元、本当に「信じ」られるものでしかない、ということ…

「水」と生命

タレスの「水」という発想は、どうも湿ったところから生物が生まれてくるようだ、という素朴な観察に基づいていたようだが、ごく感覚的にいえば、じめじめしたところに虫などが湧いてくるような気もする。例えばいつくらいか忘れたが、18-19世紀のいずれかだ…

life is water

英語が母語ではないから、文法の細部まで分からなくて困るのは、"life is water"が正しいのか"life is a water"が正しいのか、というようなことで困ることだ。恐らく後者が正しいと思うが、とにかく、それはそういう音楽(ロック?)の題名である。昨日、自…

natures

3.11、東日本大震災と福島第一原子力発電所の事故以来、「人間は傲慢なのだ」、などと言い出す連中が増えたが、私自身は少しもそうは思わず、君達は人間の「傲慢(ヒュブリス)」を問題にしてやまない古代世界に還ってしまったのか、と冷ややかに考えるだけ…

our histories

「歴史の偽造」を批判する、というのが、鎌田哲哉の基本的な発想であり、『神聖喜劇』などの大西巨人の文学に特に根拠がある。だが、私は偽造されない歴史、歴史の記録などない、と思う。鎌田の倫理・道徳、政治などは根本から全部間違いだ、ということであ…

"vivre et penser comme un porc."(「豚のように生き考える」)

あしびきの やまどり の おの しだりお の ながながし よを ひとり かもねむ かおみーる それが どうした どらえもん よじげん ぽつけに なにをまた とりだす そらをとぶ ぶたは いきいき していても ちじょう の ぶた は とさつ される だけ 。 おはにゃん …

shiki koji no shiki

正岡子規が書き遺したものを大別すれば、俳句、短歌、随筆になり、恐らく短歌の革新が最も重要である。勿論、柿喰へば鐘が鳴るなり法隆寺、という彼の俳句のことは誰でも知っているし、重い病いのなかで書かれた「三大随筆」には感銘を受けるが、日本語の文…

languages

我々を構成する日本語という言語という条件を検討しますが、まず予備的に考察しておきたいのは、ソシュール以降の言語学が扱う言語と文学が扱う言語が異なることです。ソシュールには、ランガージュ / ラング / パロールという概念枠組みがあり、記号(シー…

a lot of our identities

日本人の「国民性」、「民族性」について、唯物的な基盤を考えたほうがいいのではないのでしょうか。唯物的、と申し上げましたが、必ずしも「物」に還元されない言語的な諸関係、社会的な諸関係(特に経済)も含まれます。歴史を見てみますと、明治以前、以…

race, nation

「民族」という規定がそもそも二重です。"race", "nation"とかいいますが、生物学的根拠が想定される場合と、社会的根拠が想定される場合があります。外国人に日本が乗っ取られる、と妄想する場合、国民、民族、国家などをそれぞれ具体的に考察したほうがい…

《彼、彼、彼。》

ブランショの元々の右翼思想や反ユダヤ主義がいかがわしくても、彼がただの右派ではなく、また、文学者であるだけでもない、ということは推察される。例えば、彼は、フーコーの死後2年が経過した段階で、『想いに映るまま』という短く簡潔なフーコー論を発表…

過去と死者

先程の夢を分析、解釈してみると、その昔、別府市に住む伯父から、先祖代々の墓を守ってくれ、と頼まれたが、拒絶した、という出来事に思い至った。近代的な夢についての考え方とか理論ではなく、伝統的で宗教的な夢の理解からすれば、そうすると、私が今し…

dream / daydream / nightmare

疲れたので少し横になると、幾つか夢を見たが、中間の夢を忘れてしまい、今憶えているのは、最初の夢と最後の夢だけである。最初の夢のなかで、脱原発か何かを理由に、私は20-30名くらいの人々と一緒に外を更新していた。我々以外には人通りのない県道のよう…

微妙な狂い、偏差

セロニアス・モンクが1954年のパリで録音した『ソロ・オン・ヴォーグ』で演奏したピアノの調律が狂っていたが、それが逆に面白い効果を生んでいた、という事実から、近代の音楽、ピアノという条件などについて幾つかの省察が出て来る。検討してみれば、上述…

セロニアス・モンクのソロ演奏

そういう「理論」の問題もあるが、少し思い出してみると面白いのは、セロニアス・モンクがパリで最初のソロ・ピアノのアルバムである『ソロ・オン・ヴォーグ』を吹き込んだとき、彼が演奏したピアノがどうみても調律が狂っており、それが、記録された音や和…

音楽の枠組み、その条件

近代ヨーロッパで確立された音楽の規範について、それを批判的に吟味して乗り越えようという試みが続けられてきている。それは、現代音楽であれジャズであれ、同じである。バッハの平均律以来、我々が熟知し日々経験しているような調性が生まれた。さらに、…

音楽と「理論」

アドルノがジャズを否定しただけではなく、三宅榛名によれば、高橋悠治はかつて、ジャズの「理論」などは全部クラシックからの剽窃、窃盗、泥棒なのだ、と断言したそうである。三宅榛名自身は、自分は高橋のようにそう言い切ることはできない、と書いていた…

音楽を巡る「言葉」

バークリー・メソッドの解説書とジャズ批評の類いは異なる。渡辺貞夫の『ジャズ・スタディ』と後藤雅洋の『ジャズ耳の鍛え方』はまるで違う、ということだが、それは当たり前のことだが、要するに、音楽家なり演奏家の立場とリスナーの立場が別だということ…

「自立」などしてどうなるか?

近年の「新しい働き方」、日雇い派遣などで、労働者が「個人事業主」にされることがあるが、別に労働者個人の自主性とか主体性を重んじたいわけではなく、企業の側がその人についてそれほど責任を負いたくないし面倒も見たくない、という意味である。日雇い…

賃労働を「辞める」とどうなるか:経済的「自立」を巡る問題と困難

『国家民営化論』の、或る一つの社会を構成するみんなが独立小生産者になればいい、物書き、作家になればいい、という考え方を幻想だと断じたが、難しいのはこういうことである。資本主義を批判する論客が、賃労働、労働力商品そのものが問題だと考えるとし…

日本文芸家協会、永山則夫問題など。

歴史を振り返れば、日本文芸家協会が永山則夫の入会を拒絶したことに抗議する、という理由で、柄谷行人がいきなり日本文芸家協会を脱退したという出来事があったが、そのときは、確か、中上健次と筒井康隆が同調したはずである。確かに、殺人犯だから永山の…

文化と労働

哲学は日本に根付いていないのではないか、という疑問は当然あり得るが、では、文学者とか文芸批評家ならいいのか、というと、そういうわけでもないはずだ。歴史の事実をいえば、近代の日本で、筆一本で喰っていけたのは、1970年以降の吉本隆明だけで、それ…

「哲学」という労働

私は哲学はそもそも職業にならないのではないか、と思うが、大学に哲学専攻とか哲学科があるのは事実である。哲学が職業とか生活、収入に結び付かない、ということは、そもそも大学教育の意味、機能、役割などを再考させるが、例えば、直ちに実利にならない…

「音楽」という労働

私は千葉県立津田沼高等学校というところに進学したが、その理由は、音楽コースがあったからである。現在の津田沼高校にもそれはあるが、音楽コースがどういうものだったか説明すると、音楽高校に入り音楽大学、芸術大学を目指すほど専門的ではないが、音楽…

労働とパフォーマンス

昨日、社会を構成する全員が物書き、独立小生産者になればいい、という『国家民営化論』を批判し、そもそも労働が全部美的、芸術的な創造行為になどなるはずがない、と述べた。地味で即物的な労働が大量になければ、一社会が存続できないのは自明である。食…

美学とその対象性

miyaさんが「美学」に定位したいことについて、あれこれ批判するつもりはないのだが、私自身の考え方を申し上げれば、次のことである。芸術作品の内容などの規定を無視したただの社会学的分析と言われるかもしれないが。それは、「物」、「商品」、「美的な…