賃労働を「辞める」とどうなるか:経済的「自立」を巡る問題と困難

『国家民営化論』の、或る一つの社会を構成するみんなが独立小生産者になればいい、物書き、作家になればいい、という考え方を幻想だと断じたが、難しいのはこういうことである。資本主義を批判する論客が、賃労働、労働力商品そのものが問題だと考えるとしよう。つまり、資本と労働が分離し、敵対的な関係を形成している現状が問題なのだ、こういう労働のありようこそ変えるべきなのだ、という結論になるとしてみる。

そうすると、その論客は、賃労働、つまり、或る労働者が、生活費、労働対価、賃金を得るために、工場とか会社に雇って貰ってそこで働く、ということを辞める、と発想せざるを得ない。そして、直ちに理想社会が実現できるのならばいいが、そうでなければ、当面、賃労働を辞めた人々がどうやって生活するのか、ということを検討しないわけにはいかない。

資本主義「とは別の」働き方、賃労働とは「別の」働き方が必要だ、ということから、「アソシエーション」、生産協同組合、労働者協同組合などが提起されるようになるが、ここで、そういうことにどういう現実的な困難があるのか見たほうがいい。

我々自身が協同組合、現代世界においては「ワーカーズ・コープ」、「ワーカーズ・コレクティヴ」と呼ばれるようなものを自分で実行したいと思い、日本労働者協同組合連合会、協同総合研究所に相談して、どうすればいいか、と相談するとする。実際、私はしてみたのだが、そうすると、どういう返事が返ってくるであろうか。

それは、まず「人作り」から始めなければならない、ということである。協同組合とかワーカーズ・コレクティヴなどといえるような内実のためには、自分以外、自分の家族以外の他人、第三者が複数関わって、労働者=経営者として主体的にやってくれなければ、成り立たないのである。そして漠然と、日本中、世界中に仲間がいても致し方がない。或る一定の具体的な地域で事業を展開するとしたら、そこに通勤して来られる範囲の人々のなかで、働く仲間を見つけていかなければならないのである。

もしそれができなければ、資本主義が厭だ、賃労働、労働力商品、労働力の商品化に反対だ、という理由で、工場や会社を辞めた人々は、自営業者になるしかない。そして、自営業者になったらなったで、厳しい現実が待っている。ワーカーズ・コレクティヴにしてみてもそうなのだが、それはまず、どうみても零細な資本だという条件である。

私自身も自営業者だし、そういう人々を多く観察してきた。例えば、NAMの原理を自ら実行した唯一の人物である、と乾口達司から称賛された空閑明大だが、彼が実際にやったのは、Space AKという古本屋兼活動スペースを開くことであった。空閑は、工場労働者をいきなり辞め、その古本屋を開いたのである。しかしながら、内情は、火の車であった。NAMの初期の紛争はそのことに原因がある。つまり、空閑は性格上独裁者だったというよりも、そういうこともあったが、Space AKを開いても、NAM会員などがどんどん店に来てくれて、消費してくれなければ、金を落としてくれなければ、結構高額な家賃を支払い支払わなければならないSpace AKを維持できなかったのである。空閑の態度の強引さの理由はそれだが、我々が驚いたほうがいいのは、すぐに潰れるに違いない、と誰でも思っていたSpace AKが、潰れるどころか、NAMよりも長く続いたし、現在も持続している、という事実である。