「自立」などしてどうなるか?

近年の「新しい働き方」、日雇い派遣などで、労働者が「個人事業主」にされることがあるが、別に労働者個人の自主性とか主体性を重んじたいわけではなく、企業の側がその人についてそれほど責任を負いたくないし面倒も見たくない、という意味である。

日雇い派遣はともかく、知識人、文化人、芸術家などと漠然と言っても、その内実は個人事業者である、という場合がある。大学に勤務する知識人は大学から給料を払って貰えるだろうが、それではない芸術家は、事実上、彼(或いは、彼女)個人で経営しているとか、自営でやっている、ということになる。村上隆は『芸術起業論』を書いたし、村上は彼の美術が売れているだけではなく、芸術をビジネスと捉えるドライな物の見方でも共感され支持されているようだが、私からみれば、それは、思想などもマーケティング、市場の問題だという東浩紀と同じである。そしてそれについては、確かに現在の社会の現実はそうだが、そういうことでいいのだろうか、ということになる。

賃労働から撤退する人々が膨大にいるが、現在はまだ、資本制経済を揚棄したユートピア社会などではない。一定の貨幣、金銭がなければ生活していけないのが必然的である。そういうところから、自営業者などになるしかない現状が出てくるし、それは知識人、芸術家など文化に従事する人々にとっても同一の条件だ、ということになる。そして、そういう文化については、それはただ単に「売れない商品」であるだけなのではないのか、と考えてみる必要がある。

我々が「浜崎あゆみ」とか、エイベックス、ジャニーズなどにどういう感想を抱こうと、とにもかくにも、そういう音楽は超売れている、というのが現実である。高橋悠治とか彼が紹介するアジアの批判的、闘争的な音楽家連中のように、そういう音楽はゴミであり屑なのだ、人々の主観性を汚染し、白痴化するだけなのだ、と罵倒してみても、多くの民衆がその作曲家の現代音楽作品になど耳を傾けず、ポップスを聴くという事実を、一体どうすればいいのだろうか。また、小難しい思想書、理論書を読むより、ニコニコ動画を観る人々のほうが多いというのを、どうすればいいのだろうか。そこで、教養主義に戻ることに意味があるのか、ということである。

私が教養主義ということで想定しているのは、アドルノの音楽論だが、彼は勿論、左翼、マルクス主義者だという自覚である。だから、資本制経済、商品化社会、ひいては、大衆社会、消費社会に反対であり、否定的なのだが、しかしそういう彼の発想は、「美」、芸術の領域を、商品化、資本主義化することができない純粋な「価値」の領域として確保し守り続ける、という結論になる。ジャズなどの大衆音楽への彼の強い批判はそこから来ている。この場合の「価値」というのは、マルクス経済学であれその他の経済学であれ、そういうものが経済学的に規定するようなその商品、モノ・サーヴィスの価値、社会的に交換されるその価値、「本当のところ」どうなのかは知り得ないのだとしても、「価格」という外面的な表現から事後的に推測し想定できるような何か、とは全く違うものであり、むしろ、そういうものに還元できない超越的な「価値」である。それにはプラトン、カントなどの影を見たほうがいいと思うが、貨幣、金銭に還元できないし、また、ただの感覚的な快にも還元できない、「美」に固有の次元、自立的な「価値」が必ずあるはずだし、それは「分かる人には分かる」、分かる人にだけ分かるのだ、という考え方である。

毛利嘉孝は『ポピュラー音楽と資本主義』(せりか書房)でアドルノのジャズ批判を検討しているが、私は彼の結論は非常に妥当だと思う。つまり、アドルノは、もしルイ・アームストロングチャーリー・パーカーマイルス・デイヴィスなどを知ったとしても、ジャズを否定する彼の意見を変更しなかっただろう、というのだ。私もそう思うが、ではどうしてそうなのだろうか。

アドルノがジャズを否定する理由は、私の記憶が正しければ、おおよそみっつである。一つは、ジャズが基本的に商業主義的であり、市場に規定される音楽だ、音楽商品だ、ということである。二つ目は、ジャズ音楽が、聴き手を感覚的に刺激し、衝動とか昂奮などを一時的に惹起するだけの粗野な音楽だ、ということである。三つ目は、ジャズにおける即興、「アドリブ」などが少しも創造的、クリエイティヴなどではなく、むしろ紋切り型だ、ということである。

アドルノを性急に斥ける前に、彼の言うことが本当のことなのではないのか、とよく考えてみたほうがいいであろう。ジャズが商業主義的だというのは事実である。フリー・ジャズ、フリー・インプロヴァイゼーションは少し違うかもしれないが、そういうミュージシャンの多くはレコード、CDを出せなかったし、その条件は今も同じである。かつての山下洋輔、現在のスガダイローなどは例外と見るべきだ。大衆、民衆、つまり、音楽の聴衆の大多数が、調性がない前衛音楽、実験音楽を好んで聴くようになる日など、果たして来るのだろうか。

ジャズが感覚を激しく刺激し、昂奮などを齎す、というのも、多くの場合事実である。セロニアス・モンクの『セロニアス・ヒムセルフ』は違うではないか、と言って反駁しないでいただきたいのだが、モンクは例外である。多くのジャズCDを調べてみて、特に、JATPなどのブロウ合戦には、アドルノの批判が完全に当て嵌まることが発見できるであろう。つまりそこでは、聴き手を一時的に気持ちよくさせ、「ハイ」にさせるための乱暴な吹き方だけが問題で、理性、理知などどうでもよくなっているのである。

即興、アドリブの美学的なステータスもよく吟味したほうがいい。常識的に考えて分かるが、或るミュージシャンが、自分のソロで、瞬時に判断しフレーズを作り続けなければならないという現実的な条件、制約のなかで、作曲家連中が熟慮、熟考して捻り出すメロディーや和音よりも優れたものが生まれる、などとどうして思えるのだろうか。

私は別に、アドルノを支持して、ジャズを否定したいわけではなく、むしろジャズが非常に好きである。ただ、アドルノの批判を闇雲に斥けても仕方がないから、中身を見ればどうなのか、ということを、よく調べなければならない、というだけである。