音楽を巡る「言葉」

バークリー・メソッドの解説書とジャズ批評の類いは異なる。渡辺貞夫の『ジャズ・スタディ』と後藤雅洋の『ジャズ耳の鍛え方』はまるで違う、ということだが、それは当たり前のことだが、要するに、音楽家なり演奏家の立場とリスナーの立場が別だということだ。それはそれでもいいし、仕方がないことだが、いずれが優位にあるかを巡って不毛な論争が繰り返されるのは遺憾である。例えば、大西順子を否定する後藤とそれへの反批判、などである。

それはともかく、音楽と言葉の関係は最初から困難である。若い頃、高橋悠治は『ことばによって音をたちきれ』を書き、柄谷行人浅田彰はそれを絶讃した。そこで展開されているのは、小林秀雄の『モオツアルト』への全面批判なのだが、高橋は小林のエッセイが、非常に中途半端でいい加減、通俗的な美意識であり物語だ、と考えたわけである。そしてそういうタイプの批判は、後に、蓮實重彦によって繰り返される。

しかしながら、私が言いたいのは、小林秀雄は別に音楽の専門家でも何でもなかった、ということである。小林がいきなりモオツアルトと出会った、遭遇した、という書き方が通俗的で、ありもしないドラマをでっち上げているのだ、と批判するとしても、当時、大正から昭和初期の文化状況において、小林が、SPレコードなどの複製芸術によってモーツァルトの音楽を知ったし、レコードで鑑賞し続けた、というのは、実に当たり前のことであり、非難されたり揶揄されるべきことではない。

さらに、高橋は『ことばをもって音をたちきれ』というのだから、言葉に優位があるのだろうか。そんなはずはないし、もしそう思うならば、高橋は即座に音楽家を廃業して批評家にでもなるべきである。むしろ、西欧の純音楽であればグスタフ・マーラー、ジャズであればエリック・ドルフィーが考えたように、音楽に固有な次元は言語に還元できず、それを超えているのではないのか、と自問すべきである。

私は別に、感情が優位にあるとか、ロマン主義とか、非理性主義などを主張したいわけではないし、神秘主義になったというわけでもない。むしろ、問題は、若い頃の鋭い批評によって柄谷、浅田などから称讃された高橋悠治の言説が、1990年代以降はもうほとんど教祖のお筆先というしかないような合理性のかけらもないものになっている、ということである。高橋については、そもそも彼の「政治」などがどうなのか、というところからして、根本的に批判的に検討すべきである。