日本文芸家協会、永山則夫問題など。

歴史を振り返れば、日本文芸家協会永山則夫の入会を拒絶したことに抗議する、という理由で、柄谷行人がいきなり日本文芸家協会を脱退したという出来事があったが、そのときは、確か、中上健次筒井康隆が同調したはずである。確かに、殺人犯だから永山の入会を認めない、というのは良くないと思うが、そこに柄谷なりの反権威主義とでもいえばいいのか、よく分からない動機があるのではないか、と思う。

そして、ゼロ年代後半(NAM解散後)、彼は、『柄谷行人集』を岩波書店から出版した。別にそれでもいいのだが、彼は、岩波書店、岩波文化人を執拗に批判していたのではなかったのだろうか。言動の矛盾、不整合は構わないが、そういうことになったのはどうしてなのかを考えると、それは、内藤裕治が死んで批評空間社が頓挫、解散したからである(ちなみに、その解散は柄谷が独断して強行したことで、柄谷以外の関係者は全員反対だったのである)。

柄谷なりのポストモダニズム自己批判、アイロニカルな自己否定は、彼がかつて否定していた権威に彼自らがなる、しかも、わざと意図的にそうなる、ということで、それが、岩波書店から本を出すとか、近畿大学の人文科学研究所の所長になるということだったのだが、そういうことは全部ただのパフォーマンスだと感じるのは、私だけであろうか。