「信」を巡って

私が言いたいのは、伝統的な哲学とか形而上学は神、神々などを想定してきたが、もし、そういうものが世界にいきなり介入してきて、例えば自然法則さえも変更してしまうのでないならば、それは想像的な次元、本当に「信じ」られるものでしかない、ということである。

思想史のなかのまともな哲学者のなかで、神が恣意的に自然法則まで変更できる、と考えたのは、私が知る限りデカルトだけである。ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』の思索もあるが、とりあえずドストエフスキーは哲学者そのものではない、と考えておくことにしたい。

デカルトのラディカルな発想は、『省察』などにおいて、数学的な真理や自然学、今日の言葉では物理学とか自然科学の法則さえも神に依存しているとみたところである。さらに、彼の連続創造説というのは、世界、特に物体的な世界が瞬間瞬間、神の協力によって維持されている、というものである。そうすると、原理的にいって、神によるこの世界の創造はかつて遠い昔に一回あっただけではなく、むしろ「現在」において無限に反復され再遂行されるものだ、現時点にあるものだ、「瞬間」にあるものだ、という考え方になる。

そういう物の見方をしているのは、私が知る限り歴史においてデカルトただ一人である。別にそういう特殊な考え方がスタンダードになったわけではないが、そこには、「現在」、瞬間などの問題性がある。

それから話を元に戻せば、17世紀のデカルトとかスピノザにせよ、古代のタレスにせよ、事実上神は神の自由意志とか恣意で勝手に奇蹟ばかり起こすようなものではない、というところが重要である。我々が経験するのは、神秘家の神を観、神を経験し、神と合一する極めて例外的な経験の場合を除けば、世界(特に、世界のなかの個物)であり自然なのである。異教徒に留まろうとキリスト教を信じてみようと、さらに「哲学者の神」を拵えようと拵えまいと、ここで重要なのは、感じられ経験される対象の少し向こうに、想像的な次元、あるかないかはっきりいえないが、「想定」したり「信」じたりされる次元を付け加えるべきなのかどうかである。

エコロジーの問題についてもう一度戻れば、エコロジーはただの宗教ではないが、近代的な科学・技術に還元されるものでもない。それは、一定の「信」を導入しているのである。それは、自然、地球は生きている、活きている、という信念である。例えば、3.11の福島原子力発電所の事故で放射能が漏れ出たが、そのことを本当に合理主義的にだけ考えれば、ただの物理的な過程だというだけである。そこには何の意味もない。ところが、エコロジストに倣って発想すると、それは自然、地球から我々、つまり、人類とか人間への警告、メッセージなのだ、という考え方になる。

ジジェクの議論では、原発事故とか、彼の例では地球温暖化などだったと思うが、そういうものを神とか自然、地球の警告と捉えてしまうと宗教になってしまうが、ラカン的に「現実界の応答」と捉えればそうではない、ということだったが、私にはそういうジジェクの区別は恣意的で根拠がない、また、プラグマティックにいえばそういう区別をしてみても無意味である、と思えるのだ。