技術、合理性

私はハイデガーに詳しくないが、自分が知る限りのハイデガーの考え方を要約すれば、彼は「技術」(テクネー)を重視する、ということになる。「組み立て」が具体的にどういうことかという中身はよく分からないが、彼にとって「技術」の本質は「組み立て」である。そして近代以降、そういう「技術」が世界を支配し、その支配はますます加速し徹底したものになっていくが、彼自身としてはそれがいいことだとは思わない、ということである。

ハイデガーからエコロジーが発想されることもあるそうだが、ハイデガー自身はエコロジストではないとしても、そういう展開は十二分にあり得ることだ。ハイデガーは、別に、人間は傲慢だなどと粗雑な道徳的断定をしたわけではない。『形而上学入門』だったかにおいて、彼は、ソフォクレスの『アンティゴネー』における合唱隊(コロス)の歌、一般に「人間讃歌」と呼ばれている歌を取り上げて考察しているが、それの内容は、この世に存在するもので人間ほどに不気味なものはない、という内容である。

そしてどうして不気味なのかといえば、『アンティゴネー』がいうには、例えば、船を作って大海原に乗り出し、世界中何処にでも行ってしまう、というような、過剰性、冒険性が「不気味」だというのだ。勿論、そういう古代人の経験や発想と、近世・近代以降を同列に並べることはできないが、あれこれ考えさせる。

というのは、過剰とか超過などは近代性の本質だと思えるからである。つまり、そこまで必要がない、というようなところまで、徹底的に技術化、合理化するわけだ。例えば、現代の経営科学は、コンピューターによる計算と結び付いているが、そこにおいて問題なのはただ漠然と商品を売るとか、なんとなく帳簿を付けるとかいう生易しいものではない。コンビニの或る店舗で、いつ誰が(消費者の名前や身元までは特定できないが、性別とか年齢層などは特定できる可能性もある)何をどのくらい買ったか、という情報が瞬時に本店、本社のサーバに送信され、データが蓄積され、計算が延々と継続されることによって、より「合理的」な形態へと不断に組み換えられていく、というようなものである。その「科学性」には心底驚くが、そこまで必要なのだろうか、と思うわけである。そしてそういうことは何も経営科学に限らず、近代、現代の経験の全部にいえるのである。