ハイデガー、ニーチェ

ハイデガーの基本的な歴史の把握は、ニーチェと似ているが、プラトン以来決定的な変化が生じ、それがニーチェにまで継続された。ニーチェにおいて形而上学は完成された、というものである。その結論部分が、ニーチェ自身とハイデガーでは全く異なる。

確かに、妥当かどうか分からないが、恐らく妥当ではないと私は思うが、ニーチェには、歴史についても自然認識についても、非常に極端な発想があるわけである。『哲学者の書』などで彼が考えた認識論の基本は、認識とは人間による制作である、という発想である。我々が何かを知覚したり、考えたりする場合、全部我々が能動的に作っている、産出しているのだ、というような物の見方である。すぐにおかしいと思うが、そもそも感覚、感性的な多様が与えられるためには、「物」がなければならず、それから「触発」されねばならない、という、カント的な制約を乗り越えたり無視できるはずがない、と私などは常識的に思うのだが、どうなのだろうか。

歴史、社会についてもニーチェの考え方は過激で徹底したものである。彼の考え方では、キリスト教以来、或いはもっと遡ればソクラテス以来、ヨーロッパの人間性は堕落し柔弱になってしまった。だから、数千年掛けて叩き直す、訓育し直す必要がある、それが「超人」だ、という発想である。彼の意見では、「人間」は、動物から超人へ至る一つの過程、中間者、過渡的な形態でしかない。彼にとっては、超人こそ歴史の意味であり、ということは、自然も含めたありとあらゆるものの最終的な意味、目的である。

別にハイデガーでなくても、ニーチェのそういう発想が余りにも目的的というか、全部制作、作るという相で考えてしまっている、というか、客観的な制約とか自然な成り行きとかを無視している、と感じるであろう。ハイデガー自身に、漠然とした古代的、或いは非西欧的な瞑想以外の積極的なアイディアがあるのかどうかは分からないが、古代以来19世紀末のニーチェにまで練り上げられてきたヨーロッパの思想が、どういえばいいのか、何か余りにも「特殊」なもの、独特なものだとは感じる。そこには、我々がごく日常的な意味で用いるような「ありのまま」というものがないのである。それは人間中心主義とかヒューマニズムというよりも、何か非常に窮屈な考え方である。