詩の言葉を巡って

「生活詠」の短歌について言及したが、それを詠んでいるのは膨大な生活者の群れである。彼らが実作した短歌が後世に遺るのかといえば、それは厳しいと思うが、幾つかの他のありようと比べてみたほうがいい。

例えば、1950年代のアメリカのビート・ジェネレーションのビート詩人達だが、彼らも99%が素人であった。そして、彼らの創った詩の数々は、アレン・ギンズバーグとかゲイリー・スナイダーなど一部を除いて、今日顧みられることはない。だが、重要なのは、素人で専門性などなく、また、文化資本も乏しかった人々が詩を作りたいと望み、実行したということである。

ゼロ年代の日本では、「ネット詩」という現象があり、恐らくそういうものの99%は屑だと思うが、究極Q太郎はそれを重視し、『現代詩手帖』だかに共感的に論じる文章を書いていたはずである。究極にとってはそれが現代日本のリアリティだったのである。そしてそれは「ネット詩」というような仮想空間の問題だけではなかった。例えば彼は、あかねその他の都内各所で定期的に「詩の会」を実行していたが、そこに集まってくるのは、究極本人やラスプーチンさんなどの比較的長く詩を書き続けている専門的な人々だけではなく、漠然と詩に憧れた膨大な人々である。究極Q太郎は「詩の会」のホストとしてそういう人々を暖かく迎え入れたということなのだが、推測するに、彼の考え方は、「ネット詩」とか「詩の会」のような、まだ評価が定まらない、海のものとも山のものともつかないどころか、恐らくそこでの作品の大半が無価値であるような草の根の実践、創作活動のなかでしか詩は可能にならない、というものだったと思われる。

言語を考察すれば、まず、話し言葉と書き言葉がある。そして、日常的な発話と文学がある。文学には、詩と小説(そして、それ以外)がある。詩のなかには、短歌とか俳句のような定型詩と、自由詩がある。自由詩は文語で書かれる場合もあれば、口語で書かれる場合もある。私の疑問は、形式的な制約を撤廃すればするほど、表現は自由になり、その可能性は拡張されるのかどうか、ということである。もしそう発想するなら、口語自由詩がいいし、さらに、どんどん長く書けばいいことになるが、そうなのだろうか。

歴史を振り返れば、江戸時代に松尾芭蕉による俳句、明治時代に正岡子規による短歌が成立した。それ以前、『万葉集』から和歌のような古典文芸はあった。ところが、島崎藤村は『若菜集』で近代的な詩を確立した。しかしながら、『若菜集』は、文語体、文語調であり、しかも、「七語調」の制約があった。その後の近代の詩は、そういう制約を取り払い、口語で書くし、七語調などの制約も無視する、ということだったはずである。第二次世界大戦、太平洋戦争の期間の詩作はどうだったのかはともかく、戦後には、『荒地』派などが成立し、吉本隆明もその一員だったはずである。そういう戦後の日本の詩は、何処か明治以降の近代のものとは違っていた。それから少しして、より生活臭のある詩が書かれるようになってきた。谷川俊太郎のような超有名人も登場してきたわけであり、現代日本で詩だけで生活できているのは彼だけである。さらに、現代詩といわれるようなものになってくるが、『現代詩文庫』を読めば分かるが、表現としてますます自由になり尖鋭になってきているのだとしても、一読しても分からず、それどころか何度読んでも分からず、ごく一部の現代詩マニアを除いては誰にも「読めない」ものになってきている。勿論個々の詩人の具体的なテキストを個別に論じるべきなのだが、しかし、合理的に読解しようもない文章を一体どうやって解読すればいいのだろうか。

それはともかく、話を戻せば、一方で膨大な素朴な民衆、生活者による「生活詠」が膨大にあるわけである。他方、短歌でいえば、寺山修司中城ふみ子塚本邦雄その他のより専門的な作品がある。詩の領域でいえば、一方で「ネット詩」、「詩の会」があり、他方、現代詩がある。どちらがいいというものでもないが、表現というものが具体的にどう成り立つのかというのは、難しいし悩ましい問題である。

ところで、私が考えたのは源実朝のことなのだが、それはまず、正岡子規が『万葉集』以降のものとしては源実朝を評価した、ということ、小林秀雄が戦時中の古典論で源実朝を論じたということ、21世紀に究極Q太郎源実朝が大好きで、「詩の会」などで源実朝の和歌をよく朗読していたし、彼が1000番出版から出した詩集にもそれが引用されていたことなどを思い出したからである。

私は、源実朝は時代を超えて近代人にもアピールする要素があるのだと思ったが、しかしながら、鎌倉時代に生きた源実朝がそれほど近代人であったはずがないのも明らかである。我々の読み込みは過剰であり、且つ、思い入れを託すような投影的なものなのである。

「おほ海の磯もとどろによする浪われてくだけてさけてちるかも」、これが源実朝の代表作である。だが、この歌に近代的なリアリズムとか「写生」をみるべきではないし、後の源実朝の悲劇的な運命の予感を読むべきでもない。それは全部後世の想像であり捏造なのである。事後的にはそうみえる、というだけである。

そうはいっても、源実朝が結局どうなってしまったのか、という歴史的事実を知らなければ、彼の詩、彼が遺した和歌も「読めない」、解釈できないのも事実である。それは源実朝だけではなく、日本の和歌の伝統が元々そうだったのではないか、と思うのだが。

例えば、大津皇子の「ももづたふ磐余の池に鳴く鴨を今日のみ見てや雲隠りなむ」、有間皇子の「磐代の 浜松が枝を 引き結び ま幸くあらば また還り見む」、「家にあれば 笥に盛る飯を 草枕 旅にしあれば 椎の葉に盛る」などは、彼らが政治的な抗争に敗北して刑死した、殺害された、という歴史の事実を背景として知らなければ、その意味が分からないものである。そしてそれは和歌のような表現形式に固有で本質的なことではないか、と考えてみる必要がある。

私小説がテキストだけでは成り立たず、作者の生活状況、生活歴などの外的な状況も考え併せなければ理解できないテキストのことだ、とはよく言われるが、五七五の俳句はともかく、五七五七七の和歌、短歌などにとっても、それは必然なのではないだろうか。例えば、20世紀でいえば、先日も言及した塚本邦雄の齋藤茂吉解釈のことも検討したほうがいいであろう。