「水」と生命

タレスの「水」という発想は、どうも湿ったところから生物が生まれてくるようだ、という素朴な観察に基づいていたようだが、ごく感覚的にいえば、じめじめしたところに虫などが湧いてくるような気もする。

例えばいつくらいか忘れたが、18-19世紀のいずれかだと思うが、生物の自然発生説とかいう学説があった。それは、生命とか生物が一定の環境で自然に発生してくる、「湧いて」くるというような考え方である。例えば、部屋のなかに肉片をいつまでも放置するとしよう。そうすると、その肉は腐敗し、そのうち蛆が湧いてくる。もしそういう過程をそれだけでみれば、蛆虫が無から自然発生してきたことになる。

だが、そんなはずがないのであって、我々の観察が十分精密でないのである。本当は蝿の成虫が飛んできて、卵を産み付けるということがそもそもなければ、幼虫、蛆が生まれるはずがないのである。

話を古代のタレスに戻すと、やはり、湿っていただけで生命とか生物が生まれてきたはずがないし、生き物が生まれるには一定の条件、有性生物であれば生殖、再生産が可能な条件とかがあるはずなのだが。

タレスのいう「神々」(複数形)がどういうイメージなのかは分からないが、恐らく当時のギリシアの伝統的な宗教に従っていたのであろう。世界がそういうもので満ちている、といっても、神々が超自然的な神秘とか奇蹟を度々実行している、という発想ではなかったと思う。

スピノザ主義で一番大事だと私が思うのは、神、つまり能産的自然が所産的自然=産み出された世界から切り離せない、という洞察である。そこがキリスト教と根本的に違うし、スピノザを評価した19世紀のロマン主義哲学者(シェリングなど)とも決定的に異なる。仮に実体と様態という区別をするならば、実体は様態を離れて自存しないのである。スピノザでは神の直接認識、直観知ばかりロマンティックに憧れられるが、彼の『エティカ』の考え方はごく地道で、我々は経験において遭遇する個物を一つ一つ認識していくべきだし、まさにそれこそが神の認識なのだ、ということである。そういう考え方は、先程申し上げた、神と世界が切り離せない、神が世界を離れて超越的に在るわけではない、という前提的な信念に基づいているのである。