life is water

英語が母語ではないから、文法の細部まで分からなくて困るのは、"life is water"が正しいのか"life is a water"が正しいのか、というようなことで困ることだ。恐らく後者が正しいと思うが、とにかく、それはそういう音楽(ロック?)の題名である。

昨日、自然には、科学の対象 / 日常生活の経験の対象 / 生命的なものというみっつの相があるのではないか、と申し上げたが、私はタレスのことをいつも考える。タレスは、万物のアルケー(彼自身は「アルケー」という術語を使っていないが)を「水」であるとしたわけだが、勿論その「水」は、近代の我々が単にH2Oという化学式で表現するような、ただの水ではなく、生命原理として捉えるべきものである。だから彼は、「世界は神々で満ちている」と言ったらしいし、それは素朴な言明かもしれないが、そういう古代の自然観、宇宙観の意義を再考すべきである。

ルネッサンススピノザにしても、神が能産的自然として産み出すもの、つまり所産的自然と神自身の関係が問題である。本当はタレスもそうだったと思うが、神が世界(自然)と切り離せないとしても、神が直接世界のなかに現れて何かを奇蹟のように変えることはない。あくまで、我々が経験し知る自然があるだけである。そういう意味で、そこに神が臨在しているとか、実は自然の多様こそが神そのものの存在の表現なのだと考えてみるにしても、それは想像的な次元でしかない。だが、その想像的な次元が重要なのである。

スピノザの場合は分からないが、古代、例えばアリストテレスの自然学とデカルトの自然学は、古代人は、物体にはそれに相応しい場所があると考えたし、運動もそのように捉えたから、近代的な自然科学のようなものが出て来なかったようである。つまり、ガリレオ・ガリレイの場合そうだったのか分からないが(多分そうだったと思うが)、デカルトの自然学におけるように均質な空間、「適切な場所」「相応しい運動」とかいう目的論が排除された空間がまだ古代にはないのである。アリストテレスにとって運動は円運動がモデルだが、デカルトには直進運動がモデルである。

近代的な科学・技術、つまり、自然に働き掛け創り変えるような科学・技術が出て来ないという点では、古代よりも近代のほうが優れているのかもしれないが、例えば、現代のエコロジストが近代を批判するとき、古代的な考え方、イメージに戻っている。物体にはあるべき場所がある、ということではないが、人間なら人間には己の分、というか、彼が生きるべき、住まうべき適切な場所、環境があるはずで、そこを出るべきではない、無限に「発展」などしようとしないほうがいいのだ、そのほうが人間自身にとっても幸せだし、自然環境にもいいのだ、という発想がある。

エコロジストに従って、直ちに前近代とか古代に還ることができるわけではない。我々には我々の近代が根本的な条件である。だが、近代そのままでいいわけではない。例えば、原子力発電所が危険なのは勿論問題なのだが、エコロジストが提起するのは文明論的な問題である。近代の超克とかではないが、文明、文明観の転換なのだ。

それはそうと、ウィリアム・モリスラスキン柳宗悦について先日批判したことに留保と訂正を加えると、彼らにとっての問題は民芸、工芸であった。例えば、イギリス人達のアート・アンド・クラフト運動、柳の民芸運動などである。そしてその先輩格のフーリエにおいて問題だった魅力的労働、楽しい労働というのは、農業労働がモデルであった。

そういうことで私が言いたいのは、近代的な労働一般が問題なのでもないし、ましてや笠井潔がいう小説を書くなどという労働が問題でもない、ということである。文学の世界で対応物を探せば「生活詠」の短歌くらいであろう。上記のような伝統的な工芸、民芸、芸能などを現代に復活させることが可能なのかどうかは私にはちょっと分からないが、辻信一さんとナマケモノ倶楽部の仲間達がそういうことにずっと取り組んでいる、というのは、事実である。