natures

3.11、東日本大震災福島第一原子力発電所の事故以来、「人間は傲慢なのだ」、などと言い出す連中が増えたが、私自身は少しもそうは思わず、君達は人間の「傲慢(ヒュブリス)」を問題にしてやまない古代世界に還ってしまったのか、と冷ややかに考えるだけである。それはそうと、「自然」を理解すべきである。なぜならば、歴史と自然は人間の根本的なエレメントだからである。

自然という概念、自然と人間との関わりを考察する場合重要なのは、「自然」におおよそみっつのレヴェルがあるということである。ひとつは、自然科学が捉えるような自然である。もうひとつは、ルネッサンススピノザがいうような生命的な自然である。みっつめは、我々が日々経験するような感性的な自然である。

かつて自然科学者の一部が、現代物理学においては「物質」は消滅した、と騒ぎ立てたことがあったが、レーニンはそれを『唯物論と経験批判論』で批判した。だが、レーニンの主張の是非以前に問題なのは、科学的な理論や認識と我々の日常生活が全く異なることである。少し考えてみればいいが、物理学の最新の理論で何がどうなろうと、我々の日々の生が少しでも変わるのだろうか。全く何も影響はないであろう。そして、最新の物理理論が出来上がったからもう「物」はないなどと錯覚する人々がいたならば、それはただ単に馬鹿である。現代においては、ガリレオ・ガリレイニュートンなどの古典的な物理学は批判的に検討され乗り越えられているだろうし、「重力の法則」の位置づけも変わったのかもしれない。それでも、人間が高いところから飛び降りれば必ず死ぬ、という真実はいささかも揺らがないし変わらないのである。

要するに我々にとっての「自然」は、科学が解明するものだけではない、ということだが、生命的な自然という次元をどう捉えるのか、というのは難しい問題である。ルネッサンスはともかく、スピノザの「能産的自然」は、デカルトの機械論的自然観への決然たる反対である。そこには、近世・近代の基本的な構えを覆す何かをみるべきなのである。

スピノザ形而上学はともかく、自然は機械論的にだけは説明できないという考え方は、その後も執拗に持続し、今日に至ってもやはりそうである。かつて近代には、機械論と生気論という対立があったが、生気論はただの誤謬だとはいえないのである。カンギレムが『生命の認識』で強調するように、少なくともこれまでは、生命現象とか生物を考えるうえでは生気論を排除できなかったのである。20世紀においては、例えば、分子生物学の「知」が確立された。そうすると、生命現象とか生物は、遺伝情報、DNAから解読されるようになる。それではそれだけでよく、それ以外の漠然とした生、生命などのイメージは全く必要がなくなったのか、といえば、難しい問題である。

ジジェクが書いていたが、治療法がない或る遺伝疾患があるそうだ。それは、特定の遺伝子の異常、欠損が原因だが、そうすると、患者は、或る年齢でいきなり、その人自身の意志に反して踊り出し、そして死ぬまで踊り続ける。それを止める方法は全く何一つない。

現代の医学、生物学の「知」のレヴェルでは、遺伝子検査をすれば、その人がそういう遺伝病を持っているかどうか、は分かる。何歳で発症しそのせいで確実に死ぬ、というところまでは確実に分かるのである。ところが、そういうことを知ることができるとしても、治療法や対策は全く何一つないのだ。

そうすると、もしかしたらその人は、分析的で徹底的に機械論的な現代科学に自らの身体を委ねるよりも、ただ単に漠然と無根拠に自らの「生」を信じ、素朴に生きていたほうが、遥かに良かったのではないだろうか。