our histories

「歴史の偽造」を批判する、というのが、鎌田哲哉の基本的な発想であり、『神聖喜劇』などの大西巨人の文学に特に根拠がある。だが、私は偽造されない歴史、歴史の記録などない、と思う。鎌田の倫理・道徳、政治などは根本から全部間違いだ、ということである。

鎌田がこだわるのはQ-NAM問題、特に自分がQ会員として純粋な被害者だということだが、そんな物語など通用しない。そして、鎌田が「歴史」などを語ろうと、所詮その程度でしかないのなら、誰も説得しない。彼が『重力03』を遂に出せなかったのは、Q-NAM問題に興味がある読者など皆無だからだ。Q会員のことは知らないが、かつてのNAM会員さえも誰もそんなくだらないものを購入しないだろう。

偽造、もう少し一般的にいえば人為、意図、願望などを離れて歴史もその記録もない、客観的であるだけの歴史記録などない、ということは、歴史についての一般的で本質的な理解であり考え方だが、鎌田哲哉とかQ-NAM問題を離れれば、例えば、「歴史修正主義」をどう考えるのか、という問題になる。結論からいえば、ナチス強制収容所についてであれ南京大虐殺についてであれ、私は歴史修正主義には強く反対である。虐殺はあったと思うし、歴史認識としても、そこから出て来る政治、倫理・道徳などの問題としても絶対にそう考えるべきだと思うのだ。

だが、そのことと鎌田哲哉の道徳主義を支持することは、全く別のことである。鎌田は別に、少々文学を読んだだけで、歴史概念、その意味、事実のステータス、人間──こういう言い方は好まないが──と歴史との関わり、などについての省察とか理解があるわけではないのである。ちなみに、私自身にはそれがある。

歴史と記録、そして人間の関係は複雑で曖昧である。ただ単に事実の集積が歴史であるわけではない。ただの事実の集積というならば、そこには物理的なものも生物的なものも全部含まれるからだ。そういう人間が介在しない領域の事実を扱うものは、地球の自然史とか生物進化の歴史、生命史などと言われる。そういうものと人間の歴史は少し違っている。

当たり前だが、人間の歴史を作るのは人間自身である。「主体」を中心にした人間主義を批判、否定するかどうかというような観念論的な理屈とそのことは、全く関係がない。「主体」が「実践」するのであろうとなかろうと、誰かが何かをやらなければ、歴史とか社会のなかで何かが実現することもなく、また、経済現象もない。

そして、現在における無言の行為、純粋な行為の次元を除けば、そういう人間の歴史は「言葉」、記録と結び付いている。我々には歴史の記録、資料・史料を読む以外に過去を知る方法はない。だが、次のことを考えたほうがいい。

小林秀雄が戦時中のエッセイで、歴史とは死んだ子供を思い出す母親の営みのようなものだ、という意味のことを言っていたと思うが、小林の表現は確かに「文学的」な比喩だが、一面の真理を言い当てている。それは、歴史はただの客観的な事実としてあるわけではなく、それを想起し、その意味を主体的に──こういう物言いがいいかどうか知らないが、私は細かい表現には拘泥しないのである──把握する人間がいなければ成り立たない、ということである。そしてそういう想起とか愛惜などに、主観的な感情、願望、偏向などが全く含まれないはずがないであろう。確かに、人間は、公平で客観的、合理的であろうと努力することはできるし、或る程度は実現できるであろう。しかしながら、全部そうできるはずがないし、さらに、「公平」を求めるそういう態度そのものの根底にどういう動機、「力」があるのか、ということも洞察すべきである。

私はニーチェ主義のようなことを主張したいわけでもないし、ニーチェの極端に制作主義的な考え方は、それはそれで極論、単純化、誤謬である。ただ、歴史、記録、人間の三者の関係をよく省察し吟味したほうがいい、というだけのことである。

もう少し「人間の条件」を指摘すれば、まず、現実の行為、現実の出来事のなかで、記録される部分はごく僅かである。そして、記録されなければ、同時代の他人にも後世の人々にも遺し伝達することはできない。

記録されないということにも幾つか分けて考えたほうがいいと思うが、まず、そもそも、そういう行為や出来事があっても、個々人に、或いは集団に、認知されず記憶されない、という場合がある。人々の頭のなか、記憶のなかからさえも消え去ってしまうとすれば、そういう出来事を後になってから回復し取り戻そう、書いておこう、記録しよう、と思うとしても不可能である。

そして、フロイトを持ち出さずとも、そういう記憶の真偽性は曖昧である。私がそのように「憶えている」内容が果たして本当にその通り真実だったのか、全く分からないし、物理的な証拠、物証もなく、証言してくれる他人もいない可能性もあるからだ。

それから、記憶の問題の次には記録の問題が来る。これまでは記録というものは、文字、書き言葉が中心であった。ところが、20世紀に大幅に技術が進歩したので、視聴覚的なアーカイヴも可能になった。何か或る出来事なり事件について、音声とか写真、動画などの記録が大量に残っている場合があるのである。ただ、言葉での記録には主観的な偏向が含まれるが、映像は端的な事実、「物」そのものを直截に映すから、客観的な「真実」だ、というような素朴で無邪気な楽天的な発想は通用しない。ありとあらゆる映像記録にも、撮影者の思惑、そしてその映像をプロパガンダ目的で使用する放送局や権力などの意図が絶対にあるのである。

ともあれ、文字であれ映像などであれ、何らかの方法で記録されなければ、他者や後世に遺し伝えることはできない。そして、そもそも記録されない事柄が大量にある。さらに誰かが記録したとしても、その後の時間の流れのなかで散逸、消失する場合がある。それを取り戻すことは二度と出来ない場合も非常に多い。例えば、ソクラテス以前の哲学者達の著作の断片のことを考えてみてもいいが、例えば、デモクリトスの思想がプラトンとかアリストテレスよりも劣っていたからその著作の記録の大半が失われたわけではない。外的で偶然的な事情が大量にあったし、それだけではなく、その後成立したキリスト教中心の文化にとっては、プラトンアリストテレスは自己正当化のためにちょっと役立ったが、デモクリトスなどはそうではなかったからである。