a lot of our identities

日本人の「国民性」、「民族性」について、唯物的な基盤を考えたほうがいいのではないのでしょうか。唯物的、と申し上げましたが、必ずしも「物」に還元されない言語的な諸関係、社会的な諸関係(特に経済)も含まれます。

歴史を見てみますと、明治以前、以後で分けて考えることができるでしょうが、近代になるまで、農業、農民が中心であり続けていました。少なくとも、弥生時代からそうであったことが推測されます。

少なくとも古代の大和朝廷の成立以降(恐らくそれより遥か以前から)、農民は被支配者、統治される存在、収奪される存在でした。国家権力が成立しますと、権力者達は基本的に自ら農耕、農作業、農業労働などせず、農民が生産した農作物を食べていたのです。

日本以外の諸国と日本の違いを考察しますと、農業、特に稲作が重要であった、というところに注目する必要があります。「稲」、「米」などはただのイデオロギーだという主張も耳にしますが、ここではそれを考慮しません。

牧畜がそれほど有力ではなかった、というところが重要です。例えば、古代の日本は中国から政治的、文化的な制度を輸入しました。代表的なものは律令制度と仏教ですが、中国の政治体制を真似したのに、宦官制度は取り入れませんでした。歴史家は、それは、日本人に牧畜の習慣がそれほどなかったからではないか、という仮説を立てています。ただ、一言だけいえば、動物の去勢が先だったのか、人間の去勢が先だったのか、ということについては意見が分かれています。

農業労働が中心であった、ということは、時間意識、時間感覚、テンポ、リズム感なども独特なものにしていきます。20世紀以降もそうですが、日本人がアメリカなどの音楽を模倣してもリズム感が決定的に異なるのは、長年の文化的体験から醸成されてきた時間感覚の違い、ほとんど身体に染み付いた何かの違いのせいではないか、といわれています。

歴史を検討しますと、大和朝廷(或いはそれ以前)以降、農民は統治される者であったわけです。統治する側はといえば、大王(おおきみ)、天皇、豪族、公家、武士などでした。その後色々と社会は変わりますが、農民が食糧を生産している、それを非生産的な階級の人々が食べて生活している、という条件は同じです。

江戸時代を考えますと、その身分制度において、「士農工商」といい、農民の位置づけは上から二番目でした。ですが、実際の生活は、農民よりも、商人、町人のほうが豊かであった可能性が大きいです。江戸時代の支配者達は、現実には農民は重い年貢の負担に苦しみ、非常に苦しい生活をしていても、建前上は高い身分を与えた、ということですね。

明治以降、「大日本帝国」成立以降の重要な変化を挙げますと、一つは、富国強兵、近代化、西欧化、工業化です。『女工哀史』、『あゝ野麦峠』などにあるように、軽工業中心、次いで重工業中心に「上から」、つまり国家政策として資本主義が発展させられてきました。

もう一つ決定的に重要なのは、日清・日露戦争の勝利です。特に日清戦争の勝利は、日本人が中国への劣等感を解消した歴史上最初の契機ではなかったのでしょうか。歴史を振り返りますと、倭の五王とか卑弥呼は事実上中国の帝国に従属していたでしょう。その後も中国から進んだ文化・文明を取り入れるばかりでした。歴史上、中国・朝鮮に出兵した権力者が二人います。天武天皇豊臣秀吉ですが、天武天皇白村江の戦いで敗北し、豊臣秀吉は明にまで攻め込むつもりでしたが、誇大妄想でした。

ところが、日清・日露戦争において、中国やロシアのような大国を軍事的に打ち破ったということは、当時の日本人のナショナリズムを大いに刺激し昂揚させたのですが、そのことの現実的な理由を考えてみますと、前近代、つまり近世、江戸時代までとそれ以降とでは世界史の条件が違っていた、ということでしょう。

中国とかアラブ世界は、文化とか文明において常に優位にあり、ヨーロッパより進んでいましたが、近世以降関係は逆転しました。ヨーロッパにおいて、近代的な科学・技術と産業資本主義が成立した、ということが、その理由です。そうしますと、アメリカやヨーロッパの人々が、通商を求めて、船に乗り、鎖国している非ヨーロッパ世界に次々と来航してくることになります。

そういうアメリカ人、ヨーロッパ人は、暴力、武力、軍事力で威嚇、恫喝しましたので、中国であれ、インドであれ、日本であれ、何処であれ開国しないわけにはいきませんでしたが、そうしますと、多くの国々や地域は植民地化され、従属を余儀なくされる結果になりました。19世紀終わり頃の中国、清は、そういう国力が低下した状態でしたので、明治日本、大日本帝国などにあっさり敗北してしまったのです。

私が申し上げたいのは、日本人の国民性とかナショナル・アイデンティティというならば、国内的には農業労働中心、対外的には中国との関係が重要だったのではないか、ということです。

言語についても一定の考え方はありますが、それは後ほど整理して申し上げるほうがいいでしょう。簡単にいいますと、我々にとっての共通の条件である日本語は、明治期に言文一致により成立したものだ、ということ、それ以前には我々が知るのとはまるで違う日本語があるということです。それから、和歌、短歌のことも考えていますが、正岡子規などによって成立した近代的な短歌はそれまでの和歌とは違うのではないか、ということです。正岡子規といえば、「写生」が有名ですが、そういう「物」との関係、リアリズム描写とかではなく、言語の組み合わせの技術・方法が変わったのではないか、ということです。正岡子規は『古今集』とか『新古今集』を否定しましたが、それは、伝統的な美学、美意識を拒否することを意味しています。『万葉集』に還ることを訴えたり、源実朝の『金槐和歌集』を評価したりというのも、それまでに成立していた支配的な表現、情緒、考え方を覆そうとしたということです。勿論、正岡子規の「復古」、古代世界の発見の実証性、客観性は疑わしいものです。万葉の人々が、正岡子規を含めた近世、近代の人々が想像したような存在だったかどうかは、全く不明だ、というしかありません。