「音楽」という労働

私は千葉県立津田沼高等学校というところに進学したが、その理由は、音楽コースがあったからである。現在の津田沼高校にもそれはあるが、音楽コースがどういうものだったか説明すると、音楽高校に入り音楽大学芸術大学を目指すほど専門的ではないが、音楽が好きな生徒のためのものである。当時から専門の音楽教師が何人かいた。

音楽コースを選択しても、現実問題としては音大に進学するのは不可能ということから、当時を思い返してみると、音楽コースを選択した生徒達には或る種の希望のなさがあったような気がする。音楽大学に進めば問題がないわけではないが、そもそも音大に入れないとなると、制約が沢山あるわけである。音楽をほんの少し専門的に学んでも、職業生活には一切結び付かない、ということである。

特にピアノを専攻した場合について考察すると、仮に音楽大学とか芸術大学に入るとしても、そういう人々は毎年大量にいるから、クラシックのコンサート・ピアニストになれる可能性は限りなくゼロに近いし、競争も苛酷である。ジャズに転向してみても、クラシックよりほんの少しましかもしれないが、状況はそれほど変わらない。クラシックでもジャズでも演奏家になれなければ、地元でピアノ教室を開くしかないが、生徒が集まらないのが現実である。結婚によって経済状況が安定する場合もあるが、そういうことがフェミニズム的に間違いではないか、という以前に、うまくいかないかもしれない。

音楽大学だけではなく美術大学もそうだが、大量の芸術家の卵を育てるとしても、現実に芸術家、音楽家とか美術家になれる人々は例外的なわけである。それが当たり前の現実で、誰でも最初から承知しているはずだ、といっても、現代の日本が大量の失業者予備軍を創り出している現実は変わらない。哲学、文学など文系の学問もそうである。どれくらいの人々が、哲学者、思想家、批評家、文学者、作家になれるのだろうか。せいぜいいえるのは、一定の厳しい状況をクリア出来たら、大学に残って研究者になれる可能性がある、ということだけである。

元々の津田沼高校の音楽コースに戻ると、そこで学んだのは、楽典、聴音、ソルフェージュなどである。個別の内容は全部忘れたが、クラシックの基礎的な理論で、少し専門的なことである。例えば、楽典では調性などについて基本的な事柄を教わるし、ピアノで一定の旋律などを聴き取ってそれを声に出して歌う、という訓練もある。それにどうして「希望がない」のかといえば、そういうクラシックの基礎は、音楽大学に入るためのものだが、津田沼高校の音楽コースに来るような生徒達に音大に進学できる可能性がないからである。そうすると、一体何のためにやっているのか、ということになる。

私自身にとって音楽コースが詰まらなかったのか、というと、そういうことはないのだが、当時面白かったのは次のふたつのことである。まず、古代ギリシアの音楽はこういうものではなかったのか、ということを再現した音源を聴いたことである。もうひとつは、音楽教師の一人が現代音楽が非常に好きな先生で、彼と交流して高橋悠治が演奏するジョン・ケージなどのCDを借りてよく聴いたことである。私は当時からセロニアス・モンクが好きでよく研究していたし、音楽コースの授業でモンクについて発表したが、その先生の批評、意見は、純粋に音楽的な構造をみれば、モンクは余りにも単純だからそれほど面白くないのではないのか、ということであった。

もう一度繰り返すと、音楽大学芸術大学でピアノを専攻した場合、(1)クラシックのコンサート・ピアニストになる、(2)ジャズ・ピアニストになる、(3)ピアノ教室を開く、という選択肢があり、いずれも困難である。そして音楽コースの生徒達は、ピアノをやっていた人々もトロンボーンなど他の楽器をやっていた人々も、音楽大学とか芸術大学に進学することは最初から困難であった。そこに現実的、職業的な行き詰まりがあるし、どうしようもないのだ、ということである。

高校のカリキュラムがどうだったかをいえば、音楽コースを選択すれば、数学や理科(自然科学)の授業の一部が音楽に振り替えられるので、理数系が大嫌いな私には都合が良かったが、そういうことが、必要不可欠な知識の欠損に繋がったという可能性もある。