過去と死者

先程の夢を分析、解釈してみると、その昔、別府市に住む伯父から、先祖代々の墓を守ってくれ、と頼まれたが、拒絶した、という出来事に思い至った。近代的な夢についての考え方とか理論ではなく、伝統的で宗教的な夢の理解からすれば、そうすると、私が今しがた見た夢は、先祖からの警告であり、きちんと墓参りをし、墓所を綺麗に掃除して、死者をまともに供養すべきだ、というメッセージなのだ、という意見になるが、当たり前のことだが、私はそうは思わない。

つまらない抽象、観念に飛躍するようだが、私が考えたのは『物質と記憶』におけるベルクソンの意見である。ベルクソンの記憶、想い出、回想、過去の存在についての基本的な捉え方は、それらは"inactif"なものだ、ということである。つまり、働きを持たない、現在時に働き掛けてこない、ということである。そしてそのことだけならば、ごく当たり前のことであり、後にサルトルが「魔術」と非難するような拗れた理屈にはならないはずなのだが、過去、記憶、イマージュなどと人間との関係は、もう少し複雑で、ただの合理主義だけでは割り切れないもののようなのである。

過去の決定的な力ということについては、マルクスの『ルイ・ボナパルトブリュメール十八日』とフロイトの全著作を参照したほうがいいが、『ブリュメール』において、現代の政治家とか革命家などは、どうして過去の、例えば古代ローマ人の、或いはフランス大革命当時の政治家などの衣裳を身に纏うのだろうか。それは伊達や酔狂、ただの趣味ではないはずだ。合理的に分析して考えられるのは、彼らにとって過去が一種の理想、参照すべき理念的なモデルになっており、それとの距離感によってしか現実を測定できず、また行動もできない、ということである。そして、舞台とか役者・観客という区別を政治や歴史に導入しても無意味だとしても、とりあえず、或る一定の状況のなかで華々しく活躍している人々と、彼らを眺めている人々がいるはずだが、前者と後者の関係を考察してみれば、行動者の側が過去の衣裳を身に纏うことによって、観客とか傍観者にアッピールし、その潜在的な支持・賛同を取り付ける、という効果があるのではないか、と考えられる。以前書いたが、日本の文脈では、何度も漠然とした復古、恐らく実証的にいえば過去はそういうものではなかったであろう、というような「復古」が企てられる。明治維新がそもそもそうだが、事実上はただのテロであり、軍部独裁を帰結した「昭和維新」がそうだし、さらに近年の政治家も、幕末とか明治、昭和初期などを頻繁に参照し、「○○維新」などを看板に掲げている。端的にいえばそれは人気取りでありイメージ戦略だというだけだが、「維新」などのイメージなどに惹かれてしまう人々が99%である現実をよく考えたほうがいい。

フロイトについていえば、「過去は、そのものとしては、もう無い」というのが彼の基本的な姿勢だが、そうなのだとしても、過去の表象が一定の条件で執拗に残存し、効果とか「力」を持ち、現在、現時点において我々を苦しめる、ということになる。それが神経症などである。

フロイトの最大の問題は恐らく誘惑仮説を巡る問題なのではないか、と思うが、そこにおいて彼は、真偽を識別することが不可能な地点に到達した。心的な幻想、ファンタスムというのは、勿論、ただの「虚偽」ではない。むしろ、それは現に働き力を持っている、という意味での「現実」である。しかしながら、「心的」な現実、現実性なのである。客観的な事実として患者が想起し、訴えているようなこと、例えば子供の頃に誰か大人から性的に誘惑されて、それが心的な外傷、トラウマになった、という経緯が確認できるのかといえば、大多数の場合において、そういう検証は全く不可能である。

ベルクソンのいう記憶、想い出などとフロイトの過去の表象とは同一ではなく、特に後者においては、情動的な価値づけといった力動論が考えられているのが重要である。というのは、過去の或る表象には、どういうわけか、大量の情動が付着し、心的エネルギーが備給されている。そういう「エネルギー」などが本当に生物学的にいって実在するのかどうかは分からず、むしろ非常に疑問なのだが、それはそうと、フロイトは、何らかの理由で或る特定の過去の表象に多大なエネルギーが向けられ、注ぎ込まれる、ということこそが問題だと考えた。

そういう情動が問題だというのは、過去は、それ自体としては「もう無い」のだから、現在、現時点の我々の利害、欲望、衝動、「力」関係こそが問題であり、過去というものは回顧的に再編され再組織されているのだ、ということだが、そこにおいては、真偽とか事実関係が特定不可能であるだけではなく、表象とかイメージそのものを内在的に吟味検討して批判するだけでも、大量の偽装・置き換え・力点の移動などがあると推察される。神経症やヒステリーの患者が語る話が客観的な真実などであるはずがないし、それは別に、特に神経症でなくても、我々自身も同じである。客観的で物理的な事実だけをそのものとして想起し、回想することなど、誰にもできないのである。どうしてもバイアス、偏見を逃れることはできないのだ。

歪曲がある、デフォルメがあることは、夢を通じてなら、尚更よく分かるであろう。夢のイメージや物語は荒唐無稽である。それがそのまま直接に過去の復活、再現であるなどと思う人は誰もいないであろう。勿論、それはただの恣意的な出鱈目ではない。今も昔も脳生理学者はそう考えるようだが、とりあえずいえるのは、次のことである。身体、脳を純粋に生理的に考察すれば、確かに、夢を見ている時間、脳の一定の過程のせいで、過去のイメージがランダムに再現されているだけなのかもしれないが、しかしながら、我々が夢を把握するのは、目醒めたその瞬間だ、ということである。客観的に実証はできないが、私の仮説では、夢の一定の秩序、筋書き、物語などが仮構されるのは、覚醒したその瞬間なのである。眠っているとき、彼はただの身体の生理的な過程のなかだけにいたのだとしても、目醒めた瞬間からもう、「意味」の網の目のなかに囚われてしまい、二度と逃れられないのである。

少し飛躍するが、「観念」、"idea"についても少し考えてみた。唯物論者、実在論者などは「観念論」、観念論者を非難してやまないが、その場合の観念論とはどういうものだろうか。ヨーロッパ語では"idealism"だが、それが「理想主義」とも邦訳されるということはすぐに分かる。そうすると、問題なのは観念論であり理想主義であり、そして、現実とは別箇に「イデア」とか理念などの範型を設定し、それとの距離感や差異で現実のほうを測定し、裁断するような思考法である。

そして、私が思うには、問題は、"idea"などが、人間の主体的な関与などなく、ただ単に自動的に、自然に実現するのだ、現実化するのだ、という発想ではないだろうか。以前検討したが、マルクスにしても、思想には現実的な力がある、と述べたそうだが、思想が力を持つとしたら一定の現実条件をクリアした場合だけだと思われる。"idea"、思想、観念、理想が、全く何もしなくても勝手に実現されることなどあり得ないのである。

それは"inactif"なものであるはずの過去の想い出が現在に還ってくる、死者が還ってくる、戻ってくる、といった錯覚、誤想に似ている。だが、そういうものは、カントが言っていた「超越論的(先験的)仮象」ではないのか。そして、そもそも「仮象」というもののステータスも問題である。「美」が「仮象」と規定されることもあるが、それはただの非存在とか虚偽ではないのである。

そういう意味での"idealism"、観念論は過去のものと思われるが、そうではない。少なくとも20世紀においてはそうではなかった。現代人、現代思想は「観念論」を馬鹿にするが、しかしながら、彼らは観念ではなく「言語」に定位して考え、しかも、かつての観念論者と同一のことを考えてしまった。それはどういうことかといえば、言語は言語それ自体が存在し、営みを続け、勝手に自分自身で変異する、そしてそういう言葉の力だけで新たな現実を無限に産出する、というような発想である。

それはソシュールに基づいているが、ソシュール講義ノートにある考え方そのものではなく、非常に特殊な解釈である。だが、この手の新たな「観念論」、言語に定位するから自分は観念論ではないと思い違いをしている観念論がかつていかに力を持ったか、現在もそうか、ということは、考えるべきである。

例えば、フーコードゥルーズの言語についての基本的な考え方は、ソシュールなどを直接読むことによってではなく、ブランショを参照することによって成り立っている。そしてそのブランショにおいて、科学的な言語学、経験的な科学としての言語学がどのくらい正確に理解され摂取されているのかは分からないが、言語についての物の見方が、少なくとも言語学だけではなく、文学、そしてそれだけではなくハイデガーなどと結び付けられている、ということが重要である。

さらに、ブランショ、及びそのブランショを参照しているフーコードゥルーズの言語などについての、或いは一般的な存在論が、ハイデガーその人とは「逆」であるということも重要だ。ハイデガーは『存在と時間』で、日本語には「世人」と訳される"das Man"という概念を提起しているが、これは元々キェルケゴールの『現代の批判』からきている。そしてキェルケゴールの議論は、19世紀デンマーク当時の新聞・雑誌、ジャーナリズムなどへの痛烈で根本的な批判であった。

キェルケゴールハイデガーにとっては、「衆」とか「世人」などは本質的に堕落、頽落した非本質的なありようなのである。ところが、ブランショフーコードゥルーズは、彼らとは真逆に、"on"を重視したのである。"on"というのはフランス語の不定代名詞で、匿名の誰か、非人称的な誰か、誰でもいい不定の誰かである。彼らにとっては、例えば、1968年のパリ五月革命なども、匿名で非人称的で無名の群集のざわめきだからいい、というような発想になる。それでもいいだろうが、そこにかつてのような「歴史の主体」、歴史を変革する主体といった発想は皆無だし、それどころか、むしろ悪意的に否定され消去されている、ということが重要である。哲学・理論的には、ジャン=リュック・ナンシーが『主体の後に誰が来るのか?』という論集を編んだが、純粋に思弁的にはそうなのだとしても、素朴な物言いで申し訳がないが、「現実」がそうなのかは別問題だと私は思う。

20世紀のフランス人にとって重要なのは、「誰かが語る」、「誰か(或いは「人」が、つまり、非人称的な誰でもない「人」が)死ぬ」ことが大事であった。具体的な個々の事件、例えば、特定の誰か(例えば私など、固有名を持った具体的な個人)が特定の日時に特定の場所で車に撥ねられて死ぬというようなことはただの偶発事故、アクシデントであり、重要ではないのだ、というわけである。それは確かに、非常に「純粋」な考え方ではあるが、具体的な経験を全部消し去ってしまう、極端で徹底した観念論の再版なのではないだろうか。