《彼、彼、彼。》

ブランショの元々の右翼思想や反ユダヤ主義がいかがわしくても、彼がただの右派ではなく、また、文学者であるだけでもない、ということは推察される。例えば、彼は、フーコーの死後2年が経過した段階で、『想いに映るまま』という短く簡潔なフーコー論を発表したが、それはその題名から想像されるような随筆めいた内容ではなく、フーコーの仕事の総体を論理的に整理した文章である。ブランショの理屈が疑わしくても、彼はそれなりに論理的なのである。

彼のフーコー論の訳注で、どうも邦訳はないらしい彼の小説の一部が紹介されていたが、それは非常に興味深かった。そこでは、複数の子供達が遊んでいる。そのなかの一人がいきなりこう言い出すのだ。「今日は誰が僕をやるの?」と。それに、別の子供が答える。「彼、彼、彼。」

僕、私、自分、英語では"me"、フランス語では"moi"だろうが、そういうものと、三人称の「彼」、"he"なり"il"が任意に入れ替わってしまっているのである。私は、所謂現代思想の発想の全部がこれだけの短い断片に凝縮されているのではないか、と思う。

わけの分からぬ文学とか神秘主義を排除するならば、そこに読むことが出来るのは、先日Facebookで紹介したような、幼児の対人関係、自己と他者の境い目の曖昧さである。もう一度簡単に整理しておけば、宮澤賢治の『雨ニモ負ケズ』の「自分ヲ勘定ニ入レズ」から出発し、「君の兄弟は?」と訊かれて「太郎、次郎、そして僕だよ」と答えてしまう子供、彼自身が他人をぶったのに、「殴られた」と泣き出す子供などを考察したが、現代思想において「この私」のリアリティが消失する契機というのは、小難しい存在論的な思弁、理屈もあるが、それを一旦度外視していえば、そういう幼児の対人関係のようなものなのではないだろうか。

勿論、問題になるのが、成人ではなく幼児だけだとか、或いは、幼児に限らずありとあらゆる周縁性を想定された人々だけであるはずがないのだから、そういう議論が一般論として成り立つのかどうかは、甚だ疑問である。