美学とその対象性

miyaさんが「美学」に定位したいことについて、あれこれ批判するつもりはないのだが、私自身の考え方を申し上げれば、次のことである。芸術作品の内容などの規定を無視したただの社会学的分析と言われるかもしれないが。

それは、「物」、「商品」、「美的な対象、或いは芸術作品」といった対象性の区別及び重なり合い、ということである。そしてそのみっつが、全然別箇のものであるはずがなく、フッサール的にいえば「基づけ」の関係にあるのではないか、ということを考慮したほうがいいであろう。近代以降、或いは、現在、現在において、芸術作品とかそれに類するものが全部、商品、つまり、貨幣、金銭で売買されるものではないが、多くがそうである。そうすると、まず、何らかの意味で物でなければそもそも存在できず、さらに、その物が商品である場合が多く、最終的に、それらの商品のうちごく一部が芸術作品と呼ばれている、ということである。そして、「物」はともかく、商品と芸術作品においては「価値」が問題になるが、しかしながら、同じ「価値」という言葉が用いられていても、その意味内容は同一ではない。商品において問題にされる「価値」は、経済学的に規定されるもので、近代経済学新古典派)成立以降労働価値説には強い批判が加えられ続けてはいるのだが、我々は基本的にそれを『資本論』に依拠して理解してもいいであろう。

ところが、芸術作品の「価値」は全く異なったものである。それはプラトンイデア論(特に『パイドロス)、カントの『判断力批判』などを振り返って考察されるしかないようなもので、そこにおいて重要なのは、先日も指摘した通り、何らかの意味でただの感覚を超過していると思われていることである。

「快適」については、例えば次のようなことを考えてみることができるであろう。美味しい食事を食べたら、舌が快い。生殖器に一定の刺激を加えたら、快感が生じるであろう。さて、そういうただの生理的な過程、即物的な身体の過程に還元することができない何か、やはり「快い」ものではあるのだろうが、舌や性器の感覚的な満足だけに還元できない何かがあるのではないだろうか。そして、それが美的な経験の対象とか、芸術作品、芸術的なパフォーマンスなどと呼ばれるものなのではないだろうか。

「基づけ」というふうに申し上げたのは、それが「物」であれ「事」、例えばパフォーマンスであれ、何でもいいのだが、とにかくそれが何らかの意味で「存在」していなければ、我々には知覚、経験することができない、ということである。そういう意味で、芸術作品はまず物である。そして、近代以降の資本主義という条件では、その多くが商品である。

近代以降とか現代において、芸術作品の多くが商品である、ということは、ベンヤミンが強調した複製技術、複製芸術、複製可能性と結び付けて理解しなければならない。勿論、複製出来ない一回的なもの、単独的なものもある。ゴッホとかピカソの絵画作品そのものと、そのコピー、複製、一般に書店で売られている画集などは全く違うであろう。だが、我々の99.999%には、数億円支払ってゴッホの絵画そのものを購入することは経済的に不可能なのである。原画を購入してそれを鑑賞することは出来ないから、美術館に行くか、画集などで眺めることになるが、我々の経験、体験は、複製技術、複製芸術、複製可能性によってのみ成り立っているのである。

ジャズを考えてみよう。ジャズとそれまでの西欧の純音楽(バロック、古典派、ロマン派)の違いは何だろうか。それは、ジャズが楽譜に定位できない、ということである。我々は、演奏家としてのバッハ、モーツァルトベートーヴェンがどうだったのか、ということを、漠然とした伝聞でしか知らない。彼ら自身がチェンバロの巧みな演奏家であり、即興演奏を得意にしていたらしい、という話は伝わっているが、彼らの即興がどういうものだったのかを知る手段はないのである。我々に遺されたのは、彼らが書いた楽譜であり、それを演奏家連中が解釈したものを、コンサートやCDなどによって我々は経験するのである。

ところが、ジャズにも、W.C.ハンディなどの作曲家がいないというわけではないが、ただの作曲、簡単な譜面、ということでは、全く何も理解することはできない。そもそも初期のジャズ、19世紀がどうだったのか、ということを、具体的に知るのは難しいのである。我々が所有するジャズについての具体的認識は、録音技術が成立して以後漸く可能になるのだ。恐らく、1900年代、1910年代のものもほんの少しあると思うが、我々が手にすることができるものの多くは、1920年代以降である。例えば、ルイ・アームストロングサッチモのホット5、ホット7の歴史的録音など以降のものなのである。初期のデューク・エリントンカウント・ベイシーアール・ハインズファッツ・ウォーラーアート・テイタムなどの録音が含まれる。

そういう過去の歴史はともかく、最近どうなのか、現代、現在はどうなのか、同時代はどうなのか、ということでいえば、幾つかあるが、まず、自分が生活する地域、例えば日本、関東、そして同時代、ということを考慮すれば、ライヴに行くことが出来る、ということである。当たり前だと思われるかもしれないが、音楽的な信念のせいでCDなどよりも生演奏を重視するアーティスト、CDを出したくても経済的理由などによって出せないアーティストもいるから、ライヴに足を運ばなければ分からない人々も非常に多い。

そしてそれだけではなく、昔はレコード(最初はSP、次いでLP)、1980-1990年代くらいからはCDということだが、そういうかたちでの複製技術とは異なる複製技術が最近、問題である。いうまでもなくインターネットだが、昨日指摘したように、今のところ、多くの人々がネットにあるものは全部ただだと思っており、それがインターネットをまともな市場にすることの障害になっている。

例えば、本当は著作権侵害著作権違反ではないか、と思うが、過去の名作の多くが、パソコンに取り込まれ、YouTubeにアップロードされている。バド・パウエルの「クレオパトラの夢」とかそれだけではなく、大量の音源がただで手に入るのだ。YouTubeの音質は、CDよりは若干劣るのだとしても、無料のものが無際限にあるなら、消費者がCDなど買わなくなるのは当然であろう。なるほど、純粋に現在活躍中のアーティスト、例えば上原ひろみその他の音声や動画を勝手にネットにアップしたら、アーティストとか事務所の人々から訴えられて削除される。だが、もう死んだ人々、パウエルなどの音源はどんどんネットに溢れているし、それをどうすることもできない。