微妙な狂い、偏差

セロニアス・モンクが1954年のパリで録音した『ソロ・オン・ヴォーグ』で演奏したピアノの調律が狂っていたが、それが逆に面白い効果を生んでいた、という事実から、近代の音楽、ピアノという条件などについて幾つかの省察が出て来る。

検討してみれば、上述の事実の意味は、モンクが弾くピアノの音程が微妙にずれていた、ということである。しかも、一音ずれていた、半音ずれていた、ということではなくて、本当に微妙、微細にずれていたのである。そうすると、メジャーであれマイナーであれ、一定のコードを叩き出すと、元々不協和音でなくても、調律の狂いのせいで、微妙に違和感がある響きになる。

それと比べたほうがいいのは、ブルース・ノートと言われるような技法である。例えば、ジャズとかブルースの歌手、ベッシー・スミスとかビリー・ホリデイなどがブルースを歌うとすると、最初から数えて5番目の音などを、微妙に下げて歌う場合がある。一音下げる、半音下げる、とかではなく、微妙に下げるのである。そこからブルース独特の、長調とも短調ともいえない哀感が生まれる。というのは、そこで実現されるのは、通常の仕方では「割り切れない」何かだからである。

ここでシェーンベルグの12音音楽と比べてみると、彼の具体的な作曲の内実は遥かに複雑だったのだとしても、彼の無調、12音音楽という基本的な発想は、こういうことである。バッハ以降、古典派、ロマン派などでは、或る一つの調を中心に楽曲が組織されてきた。ロマン派が後期ロマン派になり、例えば、ワーグナーの無限旋律などになると、調性は余りにも多様になり複雑化して、非常にわけが分からないことにはなるのだが、それでも、一定の調を中心にする、ということだけは維持されていたわけである。

シェーンベルグはそういう制約を取り払ったわけだが、そうするとどうなるのかといえば、一オクターヴのなかに存在する12個の音を全部平等、対等に取り扱い、どれかが優位を持ち特権化することがないように組織する、ということになる。だが、考えてみたほうがいいことがふたつある。ひとつは、12個の音の組み合わせを純粋に形式的にだけ考えれば、その組み合わせの仕方はほとんど無際限にあるはずだが、音楽的に有意味なのはごく一部である、ということである。シェーンベルグや彼の弟子の新ウィーン楽派の作曲家達が、19世紀までの伝統的な美意識とは異なる発想をするとしても、それでも一定の選択と配列は必要であり、一定の人為、作為はどうしても要請される。もしそれを完全に撤廃するならば、後年ジョン・ケージがやったような「偶然性」、チャンス・オペレーション、『4分33秒』などになるしかないが、シェーンベルグ新ウィーン楽派はそこまでは行かなかった。そして、ジョン・ケージの実験を巡っては、そういう「偶然性」がそもそも音楽を廃棄してしまう、というようなブーレーズの「管理された偶然性」という批判がある。

また、一オクターヴを、調を度外視して、12個の音に還元する、といっても、そういうふうに12個に還元できるのはピアノにおいてだけ、或いは「理論」のなかでだけだ、ということもある。当たり前のことだが、ピアノという楽器の唯物的で技術的な限界は、半音より狭い範囲の音のずれを表現できないことである。例えば、私が鍵盤でCを押さえ、次にCシャープを押さえるとする。ふたつの音の距離は、短二度であり、要するに半音だが、それ「以下」の差異は、基本的にはピアノで表現できず、もし可能だとすれば、かつてモンクが演奏したような「調律が狂ったピアノ」によってだけ可能である。

ピアノではなく歌、サックス、ベースなどの弦楽器では、半音と半音の間の微妙な音の偏倚を表すこともできる。もしそうするならば、そこに表現されるのは、完全にこれまでとは別ではないが、何処か奇妙な感じ、収まりの悪い印象である。