出来事

私は各々の出来事が、有限な量の「空間時間」を占めており、「空間時間」の同じ領域を全体的にでなく部分的に占めている他の無数の出来事と重なり合っていると考える。

私の哲学の発展 (みすずライブラリー)

私の哲学の発展 (みすずライブラリー)

p19

Mais il y a d'autre part le futur et le passe de l'evenement pris en lui-meme, qui esquive tout present, parce qu'il est libre des limitations d'un etat de choses, etant impersonnel et pre-individuel, neutre, ni general ni particulier, eventum tantum...; ou plutot qui n'a pas d'autre present que celui de l'instant mobile qui le represente, toujours dedouble en passe-futur, formant ce qu'il faut appeler la contre-effectuation.

Gilles Deleuge, Logique du sens, p177.

ラッセルやホワイトヘッドの語る出来事 eventというのは、時間-空間内で生じ、一定の有限の量を持つ何がしかの実在である。しかるに、ドゥルーズのいう出来事というのは、時間-空間内でeffectuationされる以前の、或いはcontre-effectuaionされるような潜勢的なものであり、現実存在existenceを持たず、subsister或いはinsisterするような何かなのである。この存在論的な位相の違いは明白である。

ホワイトヘッドでいえば、ドゥルーズ流の出来事はむしろeternal objectに近いのではないか、と思う。

ベルクソンと比較すると、純粋出来事は勿論、純粋記憶に近い。が、違いがある。ドゥルーズの場合、出来事を享受する主体は非人称の人 onだが、ベルクソンの場合は生きた人格だ、ということだ。また、純粋記憶に属するのは私が実際に経験した全ての事柄だが、ドゥルーズの出来事の場合、実際に起きたことも起きなかったことも、無差別的に在ると言われる(ということでいいんじゃないかと思う…自信なし)。『差異と反復』の反復を論じた第二章で顕著だが、記憶という立場が死へと超出される時、実体験/虚構という二分法が崩されていると思う。永遠回帰において回帰するもろもろの歴史上の全ての名前は、別にこの私が現に体験し生きたものでは全くない。永遠回帰において肯定されるのは、『意味の論理学』の時期のドゥルーズの用語でいえばシミュラクルであり、『資本主義と精神分裂病』の枠組みでいえばもろもろの強度ということになるだろう。

強度とは何か。外延・延長と対比される用語で、内感の対象としてある。

ドゥルーズの用語法の特徴として、近代以前の認識枠組み(潜勢態-現勢態、など)を用いつつ、それを価値転倒しているということがいえる。例えば、伝統的な哲学-神学において、神とは純粋現勢態だった。だが、ドゥルーズにとって究極的なものとは、純粋潜勢態なのである。

可能性/現実性の区別を、潜勢的で実在的 reelなものという別の範疇を用いてズラすことで、ドゥルーズヘーゲル流の近代的?な発展史観を拒否する。ヘーゲルにとって、現実化されないものなど無価値だった。が、ドゥルーズにとっては、反-実現の対象である出来事こそが重要なのである。

ソーカル問題

私はドゥルージアンだが、ソーカルの批判を支持する。ガタリは、マテーム(数学素)などを用いるラカンらの(擬似)科学主義を全面的に拒絶すると何度も繰り返している。であれば、彼の語る「メタモデル化」を数学や物理学等々の言説から借りてきた概念?で粉飾すべきではない、と思う。

実際、その衣裳のために、ガタリの主張はひどく読みにくいものになっている。具体的に受苦する主体=患者に向き合う時、どう振る舞えばいいのか、ということに関して誠実に答えるものにはなっていないと思う。ガタリの全著作の中で、症例報告は僅か2-3しかない。それは問題的だと思う。

「知」の欺瞞―ポストモダン思想における科学の濫用

「知」の欺瞞―ポストモダン思想における科学の濫用

真に独創的で、驚くべき書物。☆5つ

根本的経験論 (イデー選書)

根本的経験論 (イデー選書)

主観性/主体感 subjectiviteの生産

ドゥルーズにとって意味が生産されるべきものであったのと同じように、ガタリにとって主観性/主体感は生産されるべきものだった。平たく言えば、われわれの生をそれとして規定している習慣の束は不断に組み替えられるものとして考えられていたわけである。

新たな言表とともに、新たな主観性が生まれる。私はガタリが挙げているこの例を余り好まないが、レーニン主義的な新たな言表(第2インターの社会民主主義と切断された)が生み出されるとともに、新たな戦闘的主観性が生産される、等々というわけだ。

精神分析は新たな主観性を生産する。同様に、精神科医もまたそうだろう。治療関係も相互作用だから、その場で医師は医師として、患者は患者としての立場が絶えず再生産されるわけである。しかしここで立ち止まる必要がある…。そうした役割は完全に固定的なものなのか、どうか、転倒の可能性はないか、などといったことも考える必要があるだろう。

プラグマティズムの基本。☆4つ

探究の論理を知るのに役立つ。パースの論文集は、最近は岩波文庫などでも出ているようだが、当時はこれくらいしか読めるのがなかった。

世界の名著 59 パース・ジェイムズ・デューイ (中公バックス)

世界の名著 59 パース・ジェイムズ・デューイ (中公バックス)

本質主義/構成主義を読み解く

私は大学の学部生の頃、OCCUR(動くゲイとレズビアンの会)にいて、そこでジェンダー/セクシュアリティを巡る理論的討論──本質主義/構成主義──の真っ只中にいた。が、私は、フーコーだのデリダを引いて難解な議論をする必要があるのかどうか、疑問に感じ、イギリス経験論やアメリカのプラグマティズムを参考に平明な理解がしたいと思った。今でも基本的な志向はそうだ。

例えば、性が生物学的に決定されているのか、文化的に構築されるものか、という議論がある。が、そもそもそれを二者択一的に捉えること自体が間違いではないか。性のような複雑な事象に関する習慣形成には、生物学的要素(例えば性ホルモン)も文化的・社会的・歴史的…要素も両方関与しているというのは自明なことではないか。

当時来日していた批評家キース・ヴィンセントらを中心に、合宿などして連日連夜討論した結晶が以下の本。懐かしい思い出でもあれば、苦い記憶でもある。

ゲイ・スタディーズ

ゲイ・スタディーズ

表象批判とイマージュ

OCCURの理論部会で検討していたのは、「表象批判」といっていいだろう。representation──他者=マイノリティを代理/表象する多数派の眼差しを問題にしていたのだから。だが、私は表象 representationではなく、ベルクソン流のイマージュ imageを問題にすべきだと思っていた。表象というと、捏造されたという語感があるが、イマージュは実在的なものだからである。

例えば、「同性愛者」を語るとして、それが単に一般概念であるかぎりは、単なる抽象に過ぎないだろう。が、標準とされるセクシュアリティからの無数の微細な逸脱の個別を一つ一つ具体的に認識し、イマージュを豊富にしていくならば、具体的な規定が得られるだろう。当時の私はそう考えていた。

『批評空間』に掲載されたもろもろの論文も読んだが、私が興味を惹かれたのは酒井隆史が訳していたベルサーニ『直腸は墓穴か?』という論文だった。ゲイ男性は肛門性交をするものだ、といった紋切り型に対して、一方では「いや、それは誤った一般化であって、ゲイ男性であっても多様な性交の仕方をしている」という正当な反論があるのに対し、他方では、「肛門性交」という規定を自ら引き受けて、肛門という性感帯における自我の溶解をラディカルに論じる(フロイトの理論を拝借しつつ)といった身振りが可能である。

プレカリアート

ゲイ男性=クィアではないように、フリーター=プレカリアートではない。クィアプレカリアートというのは、広く漠然とした概念であると共に、街路から自発的に発せられた呼び名であることに大事な意義がある。性が多数多様であるのと同様に、労働・活動・生産のありようは無限に多数多様なのであって、不安定さは千差万別、人それぞれである。そこでクィアなりプレカリアートなりを引き受けるかどうか、そして他者がそれを承認するかどうか、というのは、端的に「政治」の問題だ。例えば、自らのありように何らの批判的吟味や反省もなく、異性愛男性がクィアを自称しようとしたら、他者から待ったが掛かるだろう。ネオリベに乗って大儲けしているベンチャーの社長らが、自分も不安定だからプレカリアートだなどと言えば、他者から反発されるだろう。境界は曖昧であり、線引きは難しいが、しかし、まったく「何でもアリ」というわけでもない。そのあたりがマイノリティの連帯の政治の難しさでもある。

アイデンティティ/脱アイデンティティの思想と政治実践

OCCURにいた頃のことで今思い出すのは、MSN=男性とセックスする男性という概念の立て方に、OCCURのゲイ活動家達が強く反発していた、ということだ。というのは、同性と性交していながら、「ゲイ・アイデンティティ」を引き受けないというのは、非政治的だと考えられたからである。

しかし、同性と性行為をしたことがある者が皆同性愛者なりゲイ男性であるわけではない。バイセクシュアルだっているし、異性愛男性が遊びのつもりで同性と寝ることもあるだろう(私も同性愛に興味を持った異性愛の友人とセックスした思い出がある)。アイデンティティがなければならない、という強迫的な思い込みは、実際には多数多様な性の実践を見えなくするのだ。

そこで脱アイデンティティクィアという戦略が前景化してくる。クィアとは属性ではなく、パフォーマンスの呼び名である。横断的ないし生成的に性を上演し、新たな意味なり習慣なりを生産する、というのが、クィアの本質だ。それは、固定的な本質などないということをあからさまに語るような自己解体的な本質なのだ。

コミュニティ

新宿二丁目は世界最大のゲイタウンである、というような語り方に対して、海外を知る人はよく反論してこう言う。例えばアメリカのサンフランシスコなどは、産業や事業、生活、政治においても性的少数者である人達が公然と活動しているのに対し、二丁目は飲み屋街でしかない、そういう違いがある、と。つまり、新宿二丁目が「コミュニティ」かどうか、ということに対して、議論があるのだ。

私自身は、貧困、精神病その他の理由で、二丁目にはほとんど行かない。が、思春期の頃新宿に強烈な憧れを抱いていたことを今でもよく覚えている。子ども心に新宿の街は、欲望や性が解放された自由な場所に思えたのだ。勿論今は、そんなに単純には割り切っていない。新宿二丁目であからさまに機能し貫徹しているのが資本の論理でしかないことに自覚的だし、批判的だ。だが今なお、憧れの気持ちの残滓はあるのだ。何故なら、インターネットで可能な出会いなどは限られているから。

キース・ヴィンセントと個人的に会話した時、私は晩年のミシェル・フーコーについて語った。

同性愛と生存の美学

同性愛と生存の美学

上記で語られている新たな「生の様式」の発明が、単に個人的なものであるのみならず集団的なものでもあること、発明はコミュニティ創出的であることなどを私は語ったのである。今でも基本的にはその立場は変わらないが、ドゥルーズ=ガタリを参照して、問題は特異性──個人/集団といった対立に関して無差別的で中立であるような──の発明なのだと考える。

フランスで抑圧された同性愛者であったフーコーは、アメリカのゲイカルチャーに触れて衝撃を受ける。そこでのハッテンやSM、フィストファック等々の新たな文化的習慣に触発される。アメリカが好きで、自分はジャンクフードを食べていてもいい、などと語ったフーコーが好きだ。フーコーは若い頃情緒不安定で自殺未遂を繰り返すような、今でいう「生きづらさ系」の最先端みたいな存在だった。それが、他の誰よりも陽気な、ニーチェ的肯定の哲学者になるというのはまさに驚きだし、素晴らしいことだ。勿論、明るい側面だけではない。フーコーの元恋人だった現代音楽家は自殺しているはずだ。

クィアとアソシエーション

NAMに参加した私は、当然のようにジェンダー/セクシュアリティの関心系に参加した。そこで意外にも、日本の同性愛者運動の父とも言われる南定四郎と出会ったのは驚きだった。南定四郎は、老いて運動や紛争に疲れ、かつて彼自身が強烈に主張した「ゲイ・アイデンティティ」を放棄して、アイデンティティなき活動を目指していた。

南定四郎の「同性愛学講座」を私は主催したが、強く感じたのは、彼がOCCUR、特に新美広に対して強い怨恨なり嫉妬を抱いているということである。同性愛者運動の主導権というかヘゲモニーを完全にOCCURに奪われた格好になっていたから、そのことに対する政治的な怨恨を感じた。南定四郎が展開していたのは、卓越した美少年が自らへの恋愛感情なり感情転移を利用して組織を作ることへの強い批判であって、それ自体は尤もだとしても、そもそもの動機が怨恨なり嫉妬なのだから、まっとうな批判にならなかった。OCCURを批判したいなら公然とやればいいのに、彼はそうはしなかったのだ。婉曲かつ隠微に語ることを選んだ。

NAM解散後、南定四郎の政敵であったひびのまことを招いてひっぴい☆スペシャルを二年連続で催したことなどは、或る意味では南定四郎への裏切りでもあっただろう。だが私は、義理人情で動きたくはない。端的に公正且つオープンであることを望む。そのためには、たとえ稚拙であっても、自らの声で公然と語ることが必要だ。資本主義や国家、民族、家族などが保障するのとは違う、オルタナティブな公共性を発明していく必要があるのである。私はそのために活動している。

NAM―原理

NAM―原理

批判の実践

(臆見)人間社会は典型的な男と女とで成り立っており、一般に男は女を愛するものである。
(批判)人間社会には、「典型的な男と女」ではない無数の人々もいるし、男(だと自分のことを考える人)が女(だと見える人)を愛するものだとは限らない。性のありようは無限に多数多様であり、もろもろの微細な差異がある。

臆見のほうが一般に流布している信念であり、それを覆すのは難しい。批判的思考は常に少数派であり、力関係の中で絶えず表現を続けていかなければ「なかったこと」にされてしまう。

身体こそが重要か?

パフォーマンスを通じて、性を横断したり越境することは可能なのだろうか。構成されたものを主体的に「構成し直す」政治的なプロセスがあるとして、その後、やはり「身体こそが重要だ」ということになってしまうのでは逆戻り、退行ではないのか?

定本 柄谷行人集〈3〉トランスクリティーク―カントとマルクス

定本 柄谷行人集〈3〉トランスクリティーク―カントとマルクス

上記はジュディス・バトラーに言及し、身体こそが重要だという唯物論的認識がトランスクリティカルだと論じている。だが、そうなのか? 変えようのない(しかし本当に? 異性装、ホルモン、手術など幾らでも変えようはあるのでは?)身体というエレメントに戻ることで、再び決定論を受け入れてしまうことになるのではないだろうか?

Bodies That Matter: On the Discursive Limits of

Bodies That Matter: On the Discursive Limits of "Sex

ジュディス・バトラーについては、以下を参照(英語)。
http://en.wikipedia.org/wiki/Judith_Butler

Bodies That Matter: On the Discursive Limits of "Sex" (1993)

Bodies That Matter seeks to clear up confusions produced by willful and inadvertent mis/readings of performativity that view the enactment of sex/gender as a daily choice.[9] To do this, Butler emphasizes the role of repetition in performativity, making use of Derrida's theory of iterability, a form of citationality, to work out a theory of performativity in terms of iterability:

Performativity cannot be understood outside of a process of iterability, a regularized and constrained repetition of norms. And this repetition is not performed by a subject; this repetition is what enables a subject and constitutes the temporal condition for the subject. This iterability implies that 'performance' is not a singular 'act' or event, but a ritualized production, a ritual reiterated under and through constraint, under and through the force of prohibition and taboo, with the threat of ostracism and even death controlling and compelling the shape of the production, but not, I will insist, determining it fully in advance.[10]

Iterability, in its endless undeterminedness as to-be-determinedness, is thus precisely that aspect of performativity that makes the production of the "natural" sexed, gendered, heterosexual subject possible, while also and at the same time opening that subject up to the possibility of its incoherence and contestation.

身体性

身体性というとき大事なのは男根を持っている/持っていないというフロイト的な区別ではなく、むしろ女性になること(女性への生成)、シュレーバーの語る「女性神経」のようなものだろう。それは私は感じる Je sens.という内感に属する出来事であり、そのかぎりにおいて実在的だ。意味の生産は現実の生産であり、現実の社会的諸関係の変革であるべきなのだ。

クィア政治

NAMのフェミニズム或いはジェンダー/セクシュアリティに参加していて困ったのが、Act upなど性的少数者のラディカルな運動は「文化的」だが、NAM原理は「経済的」なので、どういうふうに運動を構築していいか分からないということだった。

勿論、政治・経済・文化の全てが闘争には関わる。以下にも出てくるが、アメリカのカストロ・ストリートでも支配的でヘゲモニーを握っているのは白人のゲイ男性であって、有色人種や女性は疎外されているとのことである。異性愛か、否かだけが分岐点なのではなく、他の無数の要因が絡まり合って力関係を形成している。

もうひとつの青春―同性愛者たち (文春文庫)

もうひとつの青春―同性愛者たち (文春文庫)

素晴らしい吹奏。☆5つ

是非聴くべし。

Charlie Parker With Strings: The Master Takes

Charlie Parker With Strings: The Master Takes

本質主義/構成主義 2

力関係、資本主義、国家、ネーション(家族、民族、宗教…)などの複雑な関連性において性を把握する必要がある、と考える。

多くの場合家族なりは著しく異性愛中心主義的且つ男性中心であり、資本主義は(男女の)「恋愛」を商品として売るために購買意欲?を煽り立てる。少子化を恐れる国家は、女性を「産む機械」(!)などと看做し、子どもを増やすべく異性愛中心主義や男女という制度を守り立てる。原理主義的な宗教は同性愛など性的多様性を倒錯と看做し、神に対する冒涜だなどと言う。こうした環境にあって、公然と変態であることはなかなか難しい。単に生きるだけでも難しいのに、マイノリティとしてのレッテルを背負って生きるのはなおさら難しい。

ドゥルーズ批判に答える

ミレールに教育分析を受けたラカン派の哲学者スラヴォイ・ジジェクは、ドゥルーズ=ガタリネグリ=ハートらの特異性、マイノリティ、マルチチュードの政治に対してアイロニカルな態度を取り、敢えて教条的なレーニン主義を称揚して見せる。しかし、そんな身振りは、オタク的な左翼=共産趣味者にしか意味はないだろう。レーニン主義、前衛党主義の問題性や非民主性があからさまな現在、それを擁護する身振りは単に反動的なだけだと思う。また、68年以降、多数多様なマイノリティの政治が前景化してきているという事実を直視すべきだ。

身体なき器官

身体なき器官

ラカン派のアラン・バディウジジェク同様、ドゥルーズ通俗的イメージを列挙しそれを覆してみせる。彼によればドゥルーズは本質的に貴族主義的な書き手なのだという。しかし、だからといって何だというのか? ドゥルーズほどユーモアをもって政治やら芸術を語れた哲学者は他にいないのではないか? バディウは一者の称揚を企てるが、それこそまさにドゥルーズが断固として退けようとした立場のはずだ。多数多様性の哲学史において初めての全面的で徹底的な肯定というドゥルーズのプロジェクトを破壊する物言いでしかない。

ドゥルーズ―存在の喧騒

ドゥルーズ―存在の喧騒

柄谷行人フーコードゥルーズ=ガタリデリダなどフランス現代思想は冷戦構造の下においてのみ意味を持つものであって、ソ連崩壊後はアイロニカルに世界資本主義を肯定するものでしかないなどと語る。だが、情勢によってころころ意味づけが変わるような思想なり哲学などは何か。

68年の思想、或いはフランス現代思想と一般に呼ばれるものは、かつてのドイツ観念論に類比することができる。それは思想運動なのである。政治革命の挫折から、哲学における革命へと向かった、という意味でそれは運動なのだ。

ドゥルーズ=ガタリについていえば、特にドゥルーズのほうは、共産党入党経験がないいわば「無垢」な左翼として(フーコーですら一時共産党に入っていたことがある)、厭味や妙な屈折なしにマルクスコミュニズムを語れる立場にあった。アルチュセールは勿論、フーコーも若い頃フランス共産党に一時入党し、同性愛を問題にされて?党を離れるといった経験をしており、その苦い体験が彼のマルクス主義サルトル流のアンガージュマンの政治の全面否定に繋がっているが、その点ドゥルーズにはそんな心理的負い目だの屈折などはなからない。『資本主義と精神分裂病』は、マルクスに全面的に依拠した意欲的な政治の書物=道具箱だ。

可能なるコミュニズム

可能なるコミュニズム

フーコーなりドゥルーズ=ガタリなりネグリ=ハートなりを統覚=中心(党?)を否定するアナーキズムだと切って捨てるのは悪質な印象操作と言うべきだろう。柄谷行人はNAMを自己否定しFree Associations(=統覚を欠いた自由連想)を称揚したのだから、彼自身の言説が自己矛盾し、首尾一貫していないと批判すべきだ。

まぁまぁかな。

☆4つ

パーソナル・マウンテンズ(紙ジャケット仕様)

パーソナル・マウンテンズ(紙ジャケット仕様)

アバウト・ア・ボーイ

今日は船橋市役所に行く予定が、父が働く警備会社で賃金が銀行に振り込めず、今晩直接持って帰ることになったので(銀行が激混みだったらしい)、市役所には明後日行くことになった。

それで、急遽予定を変更し、市議選に出るって言っている人(その人の母上と津軽三味線の稽古でご一緒している)の事務所に寄り、その後カフェ・アーモに行く。それから知り合いの家を何軒か回り、帰宅。昼食にジャガイモなどを食べるが、とても美味しかった。太るわけだよねぇ(笑)

今晩〜明日、お小遣いが貰えるのでCDを買おうと思う。早くお金がこないかな〜&何を買おうかなあ。Amazonもいいが、津田沼の山野楽器や高田馬場のMutoも捨てがたい。

そうそう、レビューでも書いたけれど、帰宅した時偶然、アバウト・ア・ボーイっていう映画がテレビ東京でやっていたので、途中から観た。テレビでかかる映画なんかどうせ通俗物でしょ? と思いつつ、まあまあ面白かった。「やさしく歌って(Killing me softly)」が効果的に使われていたのが面白い。私もバンドで演奏するんだが、これってダサかったのか(笑)。無自覚天然ボケボケバンドマンでした〜。

郵便局にちょっと行って来て、キース・ジャレットの『パーソナル・マウンテン』を聴くが、チャーリー・パーカーのウィズストリングスやUAのアメトラと並べて聴くと、どうも通俗的な気がして途中で厭になる。