主観性/主体感 subjectiviteの生産

ドゥルーズにとって意味が生産されるべきものであったのと同じように、ガタリにとって主観性/主体感は生産されるべきものだった。平たく言えば、われわれの生をそれとして規定している習慣の束は不断に組み替えられるものとして考えられていたわけである。

新たな言表とともに、新たな主観性が生まれる。私はガタリが挙げているこの例を余り好まないが、レーニン主義的な新たな言表(第2インターの社会民主主義と切断された)が生み出されるとともに、新たな戦闘的主観性が生産される、等々というわけだ。

精神分析は新たな主観性を生産する。同様に、精神科医もまたそうだろう。治療関係も相互作用だから、その場で医師は医師として、患者は患者としての立場が絶えず再生産されるわけである。しかしここで立ち止まる必要がある…。そうした役割は完全に固定的なものなのか、どうか、転倒の可能性はないか、などといったことも考える必要があるだろう。