出来事
私は各々の出来事が、有限な量の「空間時間」を占めており、「空間時間」の同じ領域を全体的にでなく部分的に占めている他の無数の出来事と重なり合っていると考える。
- 作者: バートランドラッセル,Bertrand Russell,野田又夫
- 出版社/メーカー: みすず書房
- 発売日: 1997/09
- メディア: 単行本
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Mais il y a d'autre part le futur et le passe de l'evenement pris en lui-meme, qui esquive tout present, parce qu'il est libre des limitations d'un etat de choses, etant impersonnel et pre-individuel, neutre, ni general ni particulier, eventum tantum...; ou plutot qui n'a pas d'autre present que celui de l'instant mobile qui le represente, toujours dedouble en passe-futur, formant ce qu'il faut appeler la contre-effectuation.
Gilles Deleuge, Logique du sens, p177.
ラッセルやホワイトヘッドの語る出来事 eventというのは、時間-空間内で生じ、一定の有限の量を持つ何がしかの実在である。しかるに、ドゥルーズのいう出来事というのは、時間-空間内でeffectuationされる以前の、或いはcontre-effectuaionされるような潜勢的なものであり、現実存在existenceを持たず、subsister或いはinsisterするような何かなのである。この存在論的な位相の違いは明白である。
ホワイトヘッドでいえば、ドゥルーズ流の出来事はむしろeternal objectに近いのではないか、と思う。
ベルクソンと比較すると、純粋出来事は勿論、純粋記憶に近い。が、違いがある。ドゥルーズの場合、出来事を享受する主体は非人称の人 onだが、ベルクソンの場合は生きた人格だ、ということだ。また、純粋記憶に属するのは私が実際に経験した全ての事柄だが、ドゥルーズの出来事の場合、実際に起きたことも起きなかったことも、無差別的に在ると言われる(ということでいいんじゃないかと思う…自信なし)。『差異と反復』の反復を論じた第二章で顕著だが、記憶という立場が死へと超出される時、実体験/虚構という二分法が崩されていると思う。永遠回帰において回帰するもろもろの歴史上の全ての名前は、別にこの私が現に体験し生きたものでは全くない。永遠回帰において肯定されるのは、『意味の論理学』の時期のドゥルーズの用語でいえばシミュラクルであり、『資本主義と精神分裂病』の枠組みでいえばもろもろの強度ということになるだろう。
強度とは何か。外延・延長と対比される用語で、内感の対象としてある。
ドゥルーズの用語法の特徴として、近代以前の認識枠組み(潜勢態-現勢態、など)を用いつつ、それを価値転倒しているということがいえる。例えば、伝統的な哲学-神学において、神とは純粋現勢態だった。だが、ドゥルーズにとって究極的なものとは、純粋潜勢態なのである。
可能性/現実性の区別を、潜勢的で実在的 reelなものという別の範疇を用いてズラすことで、ドゥルーズはヘーゲル流の近代的?な発展史観を拒否する。ヘーゲルにとって、現実化されないものなど無価値だった。が、ドゥルーズにとっては、反-実現の対象である出来事こそが重要なのである。