プレカリアート

ゲイ男性=クィアではないように、フリーター=プレカリアートではない。クィアプレカリアートというのは、広く漠然とした概念であると共に、街路から自発的に発せられた呼び名であることに大事な意義がある。性が多数多様であるのと同様に、労働・活動・生産のありようは無限に多数多様なのであって、不安定さは千差万別、人それぞれである。そこでクィアなりプレカリアートなりを引き受けるかどうか、そして他者がそれを承認するかどうか、というのは、端的に「政治」の問題だ。例えば、自らのありように何らの批判的吟味や反省もなく、異性愛男性がクィアを自称しようとしたら、他者から待ったが掛かるだろう。ネオリベに乗って大儲けしているベンチャーの社長らが、自分も不安定だからプレカリアートだなどと言えば、他者から反発されるだろう。境界は曖昧であり、線引きは難しいが、しかし、まったく「何でもアリ」というわけでもない。そのあたりがマイノリティの連帯の政治の難しさでもある。