アイデンティティ/脱アイデンティティの思想と政治実践

OCCURにいた頃のことで今思い出すのは、MSN=男性とセックスする男性という概念の立て方に、OCCURのゲイ活動家達が強く反発していた、ということだ。というのは、同性と性交していながら、「ゲイ・アイデンティティ」を引き受けないというのは、非政治的だと考えられたからである。

しかし、同性と性行為をしたことがある者が皆同性愛者なりゲイ男性であるわけではない。バイセクシュアルだっているし、異性愛男性が遊びのつもりで同性と寝ることもあるだろう(私も同性愛に興味を持った異性愛の友人とセックスした思い出がある)。アイデンティティがなければならない、という強迫的な思い込みは、実際には多数多様な性の実践を見えなくするのだ。

そこで脱アイデンティティクィアという戦略が前景化してくる。クィアとは属性ではなく、パフォーマンスの呼び名である。横断的ないし生成的に性を上演し、新たな意味なり習慣なりを生産する、というのが、クィアの本質だ。それは、固定的な本質などないということをあからさまに語るような自己解体的な本質なのだ。