表象批判とイマージュ

OCCURの理論部会で検討していたのは、「表象批判」といっていいだろう。representation──他者=マイノリティを代理/表象する多数派の眼差しを問題にしていたのだから。だが、私は表象 representationではなく、ベルクソン流のイマージュ imageを問題にすべきだと思っていた。表象というと、捏造されたという語感があるが、イマージュは実在的なものだからである。

例えば、「同性愛者」を語るとして、それが単に一般概念であるかぎりは、単なる抽象に過ぎないだろう。が、標準とされるセクシュアリティからの無数の微細な逸脱の個別を一つ一つ具体的に認識し、イマージュを豊富にしていくならば、具体的な規定が得られるだろう。当時の私はそう考えていた。

『批評空間』に掲載されたもろもろの論文も読んだが、私が興味を惹かれたのは酒井隆史が訳していたベルサーニ『直腸は墓穴か?』という論文だった。ゲイ男性は肛門性交をするものだ、といった紋切り型に対して、一方では「いや、それは誤った一般化であって、ゲイ男性であっても多様な性交の仕方をしている」という正当な反論があるのに対し、他方では、「肛門性交」という規定を自ら引き受けて、肛門という性感帯における自我の溶解をラディカルに論じる(フロイトの理論を拝借しつつ)といった身振りが可能である。