哲学入門 1

昨晩のid:shikuさんたちとの

意味の論理学〈上〉 (河出文庫)

意味の論理学〈上〉 (河出文庫)

読書会は、大変盛り上がり、深夜まで続いた楽しい会になった。ぼくは、ジャズのみならず、哲学ということにも「セッション」ということが言えるのではないか、と思った。一人で本を読むというのも哲学する/思考する一つのありようではあるが、複数の人間が集まって話し合うという機会もまた貴重なものではないか、と思う。

ところでドゥルーズだが、ぼくはこれから最初に哲学を読もうという人にドゥルーズの主著は勧められない。ドゥルーズの本は、翻訳が良いものも悪いものも、哲学オタクにしか分からない、というところがあるからだ。これから何か読んでみたい、という人にぼくなら以下を勧める。

エピクロス―教説と手紙 (岩波文庫 青 606-1)

エピクロス―教説と手紙 (岩波文庫 青 606-1)


ギリシア哲学者列伝 上 (岩波文庫 青 663-1)

ギリシア哲学者列伝 上 (岩波文庫 青 663-1)

哲学と生がどのように結びついているか、が分かる素晴らしい本だと思う。逸話が単に逸話であるだけでなく、哲学が生きられる時のありようを示している、貴重なドキュメント。

哲学入門 2

昨晩の読書会で話し合ったのは、非常にシンプルな一文、「アリスは大きくなる」の解釈を巡ってだった。念のため背景・文脈を説明しておくと、

不思議の国のアリス (岩波少年文庫 (047))

不思議の国のアリス (岩波少年文庫 (047))

でアリスがウサギの穴に落っこちる時、彼女が、自分のからだが縮んだり、伸びたりするのを感じる、というくだりだ。それに言及して、ドゥルーズは純粋生成といったものの本性を論じる。

「アリスは大きくなる」と言う時、大抵の人は、それで納得してしまい、それ以上考えようとはしない。しかしこの単純なる言表のうちに思考に値する何かを見出したのは、ドゥルーズは流石哲学者だな、と思う。

簡単にいえば、アリスが大きくなる時、アリスは今ある自分より大きくなるのだから、より大きくなるといえるが、しかしその大きくなった自分に比べれば、今の自分はより小さい、ということになる。それを指して、ドゥルーズは、2つの意味=方向 sensの同時的な肯定である、と言うのだ。しかし、それは正しいだろうか。

物理的世界、物の状態のレベルでいえば、不断に変容・変化している、というのが実態だろう。「大きくなる」等々質を持ち込む時、人間、言語というレベルが介入する。言語との関わりで尺度が生じ、そして尺度を外れた過剰なもの=狂気も生じる。

ドゥルーズが語る例というのは、「アリスは大きくなる」「木が緑になる」「人が死ぬ」などのありふれたものである。その動詞が、純粋出来事と彼が呼ぶ意味の領域を指し示す。アリスにとって、自分の身体感覚については、内感というか、「私は感じる Je sens.」の不断の変化があるだけである。しかしそこに言葉を持ち込むことで、「大きくなる」ということが言える。大/小という尺度が、人間、言語によって持ち込まれたわけだ。木の場合は、その色が連続的に変化している。「緑になる」と語ることが、(そもそも「緑」という切り出し方もそうだが)一定の尺度をその連続変化に持ち込むことになる。人は生きているか、死んでいるか、死につつあるか、である。「死ぬ」という言葉によって、生/死の区別が世界に持ち込まれる。

ドゥルーズにとって、質科 matiereの世界というのは、不断の連続変化の世界だ。

アンチ・オイディプス(上)資本主義と分裂症 (河出文庫)

アンチ・オイディプス(上)資本主義と分裂症 (河出文庫)

以降の枠組みでは「流れ」と定式化されるようなものが、質科の世界だ。その質科に、1)イデアの作用を蒙る部分と、2)それを逃れようとする部分=狂気とがあるという。簡単にいえば、われわれが経験している世界は、デューイなども記述しているように一定は安定しているものだが(そうでなければわれわれは未来を予期したり、期待したりして正常に社会生活を営めない)、その一定安定した世界の下には、荒々しい激変や破局の潜在性があるのだ、ということだろうか。静止を知らない、狂気の純粋生成というものは、質科・物質 matiere自身の本性に属するものだろうか。ドゥルーズ唯物論というものを語ることができるとしても、それは、質科・物質 matiereが持つ荒々しい生成変化といった本性の肯定としてあるのみだ。それは、個体化の世界であり、ドラマなのだ。

ここで一旦区切り、後程続きを書くことにする。

哲学入門 3

哲学をするということ、言い換えれば思考するということ、意味を生産するということはどういうことだろうか。それは、既成の概念やありふれた考え(臆見)、資本主義的な商業化などに抵抗し、「別の」生のありようを発明する、ということである。その意味で、ドゥルーズ=ガタリは徹頭徹尾「倫理的」な哲学者であったし、彼らが日本で人気があるのも、時として酷く悪いこともある翻訳を通じてであれ、その倫理性が伝わったからだろう。

スピノザが聖書について、こんなことを言っているそうだ。聖書は酷い翻訳で流通したが、それでもなお通じるメッセージこそそれの真の内容なのだ、即ち隣人愛が、というようなことを。ドゥルーズ=ガタリについても同じことがいえるかもしれない。『意味の論理学』『アンチ・オイディプス』の旧訳にはいろいろと不都合なり矛盾が多々あったが、しかしそのような訳書を通じてでさえ、伝わる何かがあったのだ。それを倫理性なり何なりと言ってもいいように思う。

ものすごく簡単にいえば、ドゥルーズ=ガタリの語る倫理性の本質とは、生は差異を孕んだ多数多様なもの、そして変わり得るもの(=生成変化するもの)ということになろうか、と思う。機械的決定論にも宗教じみた目的論にも反対して(その意味でベルクソン的だといえるかもしれない)、生に固有の論理を展開した。ドゥルーズ=ガタリにとって生成とは何よりも倫理的なことである。逆にいえば、彼らにとって倫理とは生成であり、差異や多数多様性の絶対的な肯定である。換言すれば、生のありのままのまるごとの肯定こそ彼らの倫理なのだ。崩壊や病い、死をも含めて肯定する、といったところに彼らの倫理性がある。

ぼくはガタリなきドゥルーズは空虚であり、ドゥルーズなきガタリは盲目である、と言った。その意味で、ラボルド精神病院でフェリックス・ガタリが続けてきた実践(役割分担表など)に、彼らの思想の一つの実践を見ることもできるのかもしれない。彼らの本を読む限り、彼らが分裂病者なりトランスセクシュアルなりについて実際的な理解を持っていたとは思えない。そうした登場人物が出てくるのは、ドゥルーズ=ガタリが生の本質を生成に、即ち変わり得るということに見ている、という意味である。ドゥルーズ=ガタリにとって、分裂病の経験は死の経験であり、それこそ超越論的経験論の可能性を保障する条件である。ドゥルーズ=ガタリの議論は、拡張された経験論である。イギリスで始まった経験論は、アメリカのプラグマティスト達、フランスのベルクソン、ドイツのニーチェ現象学者らによって拡張された。拡張された経験論ということこそ、ドゥルーズ=ガタリ流の「唯物論」(仮にそんなものがあるとして)の本質である。

哲学入門 5

レインは分裂プロセスを通過儀礼の旅として、エゴの消滅という超越論的経験として定義しているが、これはまったく正しい。この経験を通じて主体はこういうのである。「私は、いわば、生の最も原始的な形態(器官なき身体)から出発して、現在にたどりついた。」「私は見ていた、いやむしろ感じていたのだ、私の眼前に恐るべき旅を。」(中略)ほとんど耐え難いこの純粋強度を、ある遊牧的主体が通過していくのだ。これは幻覚的経験でもなければ、錯乱的思考でもなく、ひとつの感情である。つまり、もろもろの強度量の消費にほかならない一連の感動と感情であって、次に発生する幻覚や錯乱の素材を形成するのである。

アンチ・オイディプス(上)資本主義と分裂症 (河出文庫)

アンチ・オイディプス(上)資本主義と分裂症 (河出文庫)

p164-165.

哲学入門 6

どんな哲学者も通俗化や平坦化を免れない、つまり厳密な思考としてではなく、「イメージ」として流通するのを避けられないとすれば、ドゥルーズ=ガタリが死や狂気といった超越論的経験を礼賛した哲学者と看做されるのも仕方ないだろう。ドゥルーズ=ガタリは死や狂気を、純粋生成、純粋出来事として把握した。つまり、死についていえば、私が経験するのは常に誰か他人の死であり、自分自身の死は経験し得ない、そして自分が死を経験した時には経験の主体である「私」そのものが消滅してしまっている、といった事情がある。

ドゥルーズ=ガタリの描き出す死や狂気はしかし、誰か他人のそれではない。自分自身の潜在性、潜勢的なリアリティとしての死や狂気である。精神分裂病統合失調症)は、臨床実体としていえば、およそ100人に1人が罹患する病気であり、それを発病するかしないかは、およそくじ引き的な確率で決まるといってよい。われわれが問題にするのは、くじ引き的な運不運ではなく、「現実の」分裂病者もそうでない人も誰もが共に持っている創造的なプロセスだ。生成とは倫理的な問題であり、マイナーなもの、マイノリティへの生成しか存在しない。倫理的な問題であるというのは、或る意味ではそれは受動的に構成されるものであるが、他方でそれは、運命愛によって肯定されねばならないものであるという意味だ。Ma blessure existait avant moi, je suis ne pour l'incarner.(Logique du sens, p174)ニーチェ流の「運命愛」は、スピノザ流の「自由な人間」によってしか実践され得ない。ここに倫理の根本問題がある。

エティカ (中公クラシックス)

エティカ (中公クラシックス)

が語る「自由」というのは稀なものとしての徳だ。「自由」というのは、無際限の権力を持ってあることではなく、全ての事象の論理、因果関係を理解し受け入れるという意味である。それは諦観なのか? そうだともいえるし、そうではないともいえるだろう。

ここで一旦送り、続きはまた後程書く。

哲学入門 7

ドゥルーズ=ガタリの根本問題は倫理、言い換えれば欲望の政治であり、一語で言い表せば「生成」にその鍵がある。客観的にみれば、現実には私はこれこれの社会的資格を持ち、あれこれの社会的位置に位置づけられ、或る呼び名で呼ばれ、形容・質化されている。それは良識と常識(共通感覚)に基づいた、社会に適応した生活を送るための、言い換えれば資本主義に犬のように屈服して生き延びるための、妥協であり単純化なのだ。私がこれこれの者として特定されねばならないこと、例えば戸籍や住民基本台帳に登録されねばならないことは、事柄として必然的なことではない。私を管理したりマーケティングの対象にしたりしようとする国家や資本がないならば、そんなものは必要がないのである。われわれが、「おまえは男なのか女なのか。どちらでもないなら、おまえはオカマだな」などと言われなければならないのはどうしてなのか。男でも女でもない、或いは男でも女でもある、などといった「選択」が多くの場面で許容されないのはどうしてか。単なる習慣、便利さの問題だけなのか。単なる便利さの問題なのであれば、トイレを共用にし、銭湯の壁を打ち壊せ、という過激な政治的主張にも理があることになる、と私は思う。生/性を巡る人の尊厳はないがしろにされて良いことではないからである。

ドゥルーズ=ガタリの問題性は彼らは分裂病者やトランスセクシュアルなどについて多くを語るけれども、「現実の」分裂病者やトランスセクシュアルとは何の関係もない、ということである。分裂病なりトランスセクシュアルは、差異、多数多様性、横断性を表現する名前になってしまっている。

記号と事件―1972‐1990年の対話 (河出・現代の名著)

記号と事件―1972‐1990年の対話 (河出・現代の名著)

の冒頭に、意地悪な同性愛者の批評家に宛てたドゥルーズの手紙が掲載されている。それによると、ドゥルーズは同性愛者の「ゲットー」に出掛けていく義務は全く感じていないという。それはそれでいいが、現実の性的少数者と交流し信頼関係を築く気がないのであれば、何故彼・彼女らを語るのか、それは利用主義的ではないか、という批判も成り立つだろう。

ホモセクシュアルな欲望

ホモセクシュアルな欲望

これは『アンチ・オイディプス』の論理を使ってフロイト批判をした本だが、しかしオッカンガムは、ドゥルーズ=ガタリが「倒錯」という範疇を保持し続けていることをどう考えるのか。

これは貴重なドキュメントだが、誰もが皆倒錯者「であり得る」という可能性から、万人が倒錯者、変態だと主張するのには飛躍がありはしないか。

同性愛と生存の美学

同性愛と生存の美学

ミシェル・フーコーは、同性愛者になるべきではなく、しかし懸命にゲイにならなければならない、と訴えているが、これもフーコー晩年の「自己」の倫理を念頭に置いて読むべき発言だろう。ドゥルーズ=ガタリ流の用語法で言い換えるなら、同性愛者(という特殊性)になるべきではなく、ゲイ(という特異性)になるべきだ、ということだろう。同性愛を含むもろもろの性的多数多様性は、生物学的、社会的、政治的…な極めて複雑な過程を経て決定されるプロセスだが、ゲイなりクィアなりというのは、そのプロセスを他者「になる」可能性として開く倫理的選択であり、決断なのだ。

ここで一旦送り、後程書き続ける。

哲学入門 8

ここでようやく、哲学=思考学の入門めいたことを書き始めたい。先ず最初に、草の根的な思考なり発言なり創造なりといったものを全面的に擁護したい。ドゥルーズ=ガタリは「哲学の死」を信じなかった。言い換えれば、「X(このXには哲学史で習う大先生がたの名前を代入する)も読まずにものが考えられるのか?」といった脅迫に屈さず、自らに固有の受苦や歓喜のうちでものを考え、語り、書くといった営みを全面擁護するということである。その意味で、哲学史教育の抑圧性を痛烈に批判したドゥルーズ=ガタリの文章は力強い。何であれ思考を喚起するのであれば、例えばヘーゲル哲学の入門書であってもよい、というガタリの発言があるが、本当にそうだと思う。素材は何であれ、ものを考えるための契機になればそれでいいのだ。

玄人というか、すれっからしというか、哲学オタクというか、そういった層にしか分からない表現というのには限界がある。が、素人の名において正当化される稚拙な表現といったものにもやはり、限界がある、と言うべきだろう。ではわれわれはどうすればいいのか。すれっからしにならずに、達人になる、どんな道があるというのだろう。

芸術においてはともかく、生/性においてはプロなど存在しない、という当たり前のことを指摘しておく必要がある。生/性はアマチュアリズムの実験精神の沸騰する場なのだ! 先ずやってみるということ、手を動かしつつ考え、語り、書くということが大切だ。そこからラディカルに民主主義志向の実践が紡ぎ出されるだろう。「貴方には語る資格がない」と脅すあらゆる権威主義的言説に抗って、言葉を語っていこう。ものを書いていこう。考え、語り、書くことに何の資格も権威も必要ない。生きているという事実性だけで、既に尊重されるに値する。

ここまで書いて一旦送り、後程書き足すことにしたい。

哲学入門 9

哲学の言説の中で、玄人向きというか、渋いというか、「その筋の人」にしか分からないといえば、やはり現象学分析哲学だろう。そこでは哲学的な思考ではあるのだが、専門家にしか分からないしそもそも興味も持たないような事柄が延々と論じられ続けている。それに比べれば、ドゥルーズ=ガタリなどに興味を持つといえばミーハーというか、素人っぽいんじゃないかなぁ。でもその素人っぽさは良いこともあるのではないか。哲学オタクになっていくことだけが、哲学=思考学をやる唯一の道じゃないだろう。生そのもののうちで、生きた概念を生み出し、思考を創造していく、といった草の根の営みも十分、哲学=思考学の名に値するはずだ。

ドゥルーズが、ニーチェの二つの読み方ということを語っていたことがある。一つは専門研究者の読み方で、ニーチェを原語で、文献学的に読み解くといったもの。もう一つは、街路でニーチェを冒険的に「生きる」活動家のやり方。ストリートへと、テキストを開いていく、というやり方があるはずだ。そうした直接に生と結びつくやり方で哲学=思考学を実践する余地はまだあるはずだ。

ここで一旦送り、後程また書き加える。

哲学入門 10

草の根的にものを考える、いわば限界芸術的?にものを考え、語り、書き、創造するといったことについて、注記しておきたいことがある。それは、思考が、タブラ・ラサ(白紙)を前提にすることはできない、ということだ。

既に無数のクリシェ、決まり文句、既成の・出来合いの概念やキャッチコピー、資本主義の広告の洪水、ナショナリズムの熱狂など、思考が既に侵されているものというのは非常に多い。その一つとして、例えばであるが、「強制異性愛」「男女という制度」を挙げることができるだろう。社会には、男と女と(だけ)が存在し、そして男と女は愛し合うものである、という牢固としたイデオロギーが抜き難くこの社会には存在している。

勿論実際には、多数多様な性的少数者クィア、オカマ、変態がいる。典型的な男/女のイメージに収まらない性自認や外観を持つ人もいれば、同性を、或いは両性を性愛の対象にする人もいるし、そもそも性愛の観念と無縁な人(Aセクシュアル)もいる。にも関わらず、社会の多数派であるという理由で、男女の異性愛が「標準」と看做されている。

つまり、ものを考えたり、何らかの営みを営んだりしようとする際に、力関係に、つまりは政治にぶつかるということだ。その意味で、政治抜きに思考や創造、表現といったことはあり得ない。考えることは闘争であり遊戯でもあるのだ。

ここで一旦送り、後程書き足したい。

哲学入門 11

言い忘れていたことがあった。観念的で夢想的な左翼にとっては遺憾なことだろうが、もろもろのマイノリティ、「精神病」者や性的少数者等々が持ち合わせている欲望が「革命的」かどうかは、場合によるのであって、一概には言えない。

マイノリティだから革命的だとか創造的だとかいうことはないのであって、それは各人がそれぞれ探求を続けるべきことなのである。同性愛や異性装と無縁でも、「女になること」を実践している人はいるだろう。また、「子どもになること」は幼稚な振る舞いをすることと同義ではない、等々。

革命的であるとか、抵抗的、対抗的であるとか、オルタナ志向であるとかいうことは、何によって保証されるのだろうか? 意志によってか、認識によってか? 自己規定によってか、他者からの眼差しによってか? 選択によってか、構成(決定)によってか? 問題は「自由」にあるのか、どうか? こうした一切のことは、判断が難しい。そもそも人間の自由とは何かというのは、スピノザ以来、或いはストア派以来、問題的なままだった。

哲学にしても、情勢によって意味づけられ(それ自体には意味はないとしても)、急進的であったり反動的であったりするイデオロギー的色彩を有することになる。私の記憶に間違いがなければアルチュセールはそう述べていたはずだ。

反動的で白痴的な思考なり語りなり表現なり、といったものも数え切れないほど多数存在しているし、マイノリティの側がそうしたものに染まることだってままあることだ。思考が「批判」「闘争」といった反逆的本性を持つためには、絶えざる自己検証なり吟味が必要なのだ。

ここで一旦送り、後程書き足す。

哲学入門 12

以前にもレビューを書いたことがあると思うが、神田橋條治の名著をお勧めしておきたい。当然、☆5つ。フロイトラカンガタリの非実践性、っていうか、現に受苦している自分への役立たなさに苛立つ人には良い本だと思う。

精神科養生のコツ

精神科養生のコツ

これに比べられる本としては、以下しか思いつかない。

精神科治療の覚書 (からだの科学選書)

精神科治療の覚書 (からだの科学選書)

以下の本は、まさに「常識破り」に生きてきた東郷健の主張が満載。『資本論』の訳者に会いに行った話など面白いですねぇ。

常識を越えて―オカマの道、七〇年

常識を越えて―オカマの道、七〇年

一旦送る。続きは後程。

哲学入門 13

『意味の論理学』冒頭部分に戻ってみたい。問題は、「アリスが大きくなる」という言表の意味である、と先程語った。それをもう少し詳しくみてみると、アリスのからだが伸縮するのはウサギの穴に落下している時であり、さらには、夢の中での出来事である。だから、われわれはこれを、夢見における独特の身体感覚を想起しながら考えることができる。

夢の中で、からだが伸縮する、というのはよくある経験なのだろうか。少なくとも私は、そうした夢を記憶していない。が、悪夢、というか意味不明な苦痛にうなされる時、身体がバラバラになるような不快な感覚に襲われることがままある。そうした身体感覚もまた、意味の論理学の対象の一つ=ファンタスムであると考えていいように思う。

純粋生成とは夢の感覚のようなものなのだろうか。ドゥルーズは、アリスの冒険は、人格的(人称的)同一性の解体と固有名の喪失であると語っていた。が、私にはそれは、夢の世界の特質であるようにみえる。実際、『不思議の国のアリス』の物語全体が、その終わりにおいて、アリスの見た夢であったことが明かされるというオチがついている。

私は固有名の喪失ということで、カフカを想起した。カフカの世界では、名前が「K」という一文字に抽象化されてしまう。そして、カフカの小説の雰囲気もまた、夢に似ている。特に私がそう思うのは、『判決』などの短編に関して、その急展開(病いに臥していた父親が突如立ち上がって、Kに死刑宣告し、Kが猛ダッシュして橋から投身するラスト)がよく夢で見られるものに似ているように思えるのだ。

カフカ短篇集 (岩波文庫)

カフカ短篇集 (岩波文庫)

生成と固有名喪失、夢の世界といえば、カフカの『変身』を連想する。朝目覚めると巨大な芋虫になっていた、という不思議な語り。変身、そして妹からリンゴを投げ付けられて死に至るまでの過程が、悪夢のようだと感じる。

変身 (新潮文庫)

変身 (新潮文庫)

夢といえば、初期の柄谷行人に「夢の世界」という短い文章がある。『意味という病』に入っているはずだ。それでカフカにも言及されていたはずだと思う。カフカといえば、高橋悠治が訳し再構成した『カフカ/夜の時間』が非常に面白い。

意味という病 (講談社文芸文庫)

意味という病 (講談社文芸文庫)

雑談モード

ガタリメルロ=ポンティを、ドゥルーズベルクソンを高く評価していた。二人が不一致だったのは、ニーチェの評価と映画の趣味に関して。ドゥルーズは王道な映画センスだったが、ガタリは実験映画とかばっかり観ていた。それと、ガタリニーチェが嫌いだった。

書棚を整理して、膨大な哲学書をあれこれ眺めてみて、もう一度哲学やろうかという気になってきた。「哲学なんて何の役に立つの?」「役に立つ・立たない、商品として売れる・売れないでやるかやらないか決めるなんて、そんな貧しい思考回路持ってないわ」

雑談モード 2

ドゥルーズが言葉の機能を指示、表現、論理的関係性の3つに整理し、第4のもの:意味 sensを付加しようとする時、思わずプラグマティックな態度を取りたくなってくる。そうした新たな存在者を認めることで、われわれの生活が具体的にどう変わるのか? と。実際、無意味-意味を追加したところで、われわれの生は少しも変わりはしない。オッカムの剃刀を持ち出すならば、余分なものとして真っ先に剃り落とされるべきものだろう。

ドゥルーズが追求するのは、現象ではなく、現象に最も近い可想体(ヌーメノン)である。ドゥルーズはカント流の物自体を措定しているのだ。だが、潜勢的なる実在を想定したところで、われわれの経験と生はどう変わり得るだろうか? むしろ全く変わり得ないのではないだろうか? 原子爆弾劣化ウラン弾はわれわれの生に直接に関わってくる。それらはわれわれの生を破壊する。が、意味なり差異といったものは、われわれの習慣的世界にとって、何らかの意味-効果を持つものではない。

雑談モード 3

私が好きなのは、昔ながらの哲学の本。例えば、

方法序説 (岩波文庫)

方法序説 (岩波文庫)

デカルトのこの本は少しでも自分でものを考えようという人にとっては基本中の基本、ジャズでいえばスタンダードナンバーみたいなものだと思う。デカルトについては、以下を参照。

http://fr.wikipedia.org/wiki/Descartes

方法序説の原文を読む。

また例えば、

人間知性論 1 (岩波文庫 白 7-1)

人間知性論 1 (岩波文庫 白 7-1)

『人性論』や『純粋理性批判』より難しくはなく、しかも熟考に値する記述があちこちにみられる古典。ロックについては以下を参照。

http://en.wikipedia.org/wiki/John_Locke

人間知性論の原文を読む。

晩年のバド・パウエルの歌心に惚れる

素晴らしい。☆4つ

Budism

Budism

アート・テイタムの録音も聴いたが、それも素晴らしかった。

雑談モード 3

昨日今日と久しぶりに哲学や外国語に浸って、Q-NAM問題をすっかり放念していたが、過去のトラウマ的な記憶からたとえ短い時間であれ解放されてあるというのは快いことだ。自分は大学院を出てから10年間のブランクがあるから、思考や読解はできないと思い込んでいたが、無理せずマイペースでやってみたら少しはものも考えられるし、テキストも少しずつなら読めるということが分かった。純粋に嬉しいと思う。

私はやはり、アメリカのプラグマティズムに一番親近感を覚えるなぁと感じた。上山春平の本は読む気にならないけれど…。それにイギリス経験論も面白いものだよねぇ。

明日は船橋津田沼に出掛けます。今から楽しみにしています。