クィアとアソシエーション

NAMに参加した私は、当然のようにジェンダー/セクシュアリティの関心系に参加した。そこで意外にも、日本の同性愛者運動の父とも言われる南定四郎と出会ったのは驚きだった。南定四郎は、老いて運動や紛争に疲れ、かつて彼自身が強烈に主張した「ゲイ・アイデンティティ」を放棄して、アイデンティティなき活動を目指していた。

南定四郎の「同性愛学講座」を私は主催したが、強く感じたのは、彼がOCCUR、特に新美広に対して強い怨恨なり嫉妬を抱いているということである。同性愛者運動の主導権というかヘゲモニーを完全にOCCURに奪われた格好になっていたから、そのことに対する政治的な怨恨を感じた。南定四郎が展開していたのは、卓越した美少年が自らへの恋愛感情なり感情転移を利用して組織を作ることへの強い批判であって、それ自体は尤もだとしても、そもそもの動機が怨恨なり嫉妬なのだから、まっとうな批判にならなかった。OCCURを批判したいなら公然とやればいいのに、彼はそうはしなかったのだ。婉曲かつ隠微に語ることを選んだ。

NAM解散後、南定四郎の政敵であったひびのまことを招いてひっぴい☆スペシャルを二年連続で催したことなどは、或る意味では南定四郎への裏切りでもあっただろう。だが私は、義理人情で動きたくはない。端的に公正且つオープンであることを望む。そのためには、たとえ稚拙であっても、自らの声で公然と語ることが必要だ。資本主義や国家、民族、家族などが保障するのとは違う、オルタナティブな公共性を発明していく必要があるのである。私はそのために活動している。

NAM―原理

NAM―原理