ドゥルーズ批判に答える

ミレールに教育分析を受けたラカン派の哲学者スラヴォイ・ジジェクは、ドゥルーズ=ガタリネグリ=ハートらの特異性、マイノリティ、マルチチュードの政治に対してアイロニカルな態度を取り、敢えて教条的なレーニン主義を称揚して見せる。しかし、そんな身振りは、オタク的な左翼=共産趣味者にしか意味はないだろう。レーニン主義、前衛党主義の問題性や非民主性があからさまな現在、それを擁護する身振りは単に反動的なだけだと思う。また、68年以降、多数多様なマイノリティの政治が前景化してきているという事実を直視すべきだ。

身体なき器官

身体なき器官

ラカン派のアラン・バディウジジェク同様、ドゥルーズ通俗的イメージを列挙しそれを覆してみせる。彼によればドゥルーズは本質的に貴族主義的な書き手なのだという。しかし、だからといって何だというのか? ドゥルーズほどユーモアをもって政治やら芸術を語れた哲学者は他にいないのではないか? バディウは一者の称揚を企てるが、それこそまさにドゥルーズが断固として退けようとした立場のはずだ。多数多様性の哲学史において初めての全面的で徹底的な肯定というドゥルーズのプロジェクトを破壊する物言いでしかない。

ドゥルーズ―存在の喧騒

ドゥルーズ―存在の喧騒

柄谷行人フーコードゥルーズ=ガタリデリダなどフランス現代思想は冷戦構造の下においてのみ意味を持つものであって、ソ連崩壊後はアイロニカルに世界資本主義を肯定するものでしかないなどと語る。だが、情勢によってころころ意味づけが変わるような思想なり哲学などは何か。

68年の思想、或いはフランス現代思想と一般に呼ばれるものは、かつてのドイツ観念論に類比することができる。それは思想運動なのである。政治革命の挫折から、哲学における革命へと向かった、という意味でそれは運動なのだ。

ドゥルーズ=ガタリについていえば、特にドゥルーズのほうは、共産党入党経験がないいわば「無垢」な左翼として(フーコーですら一時共産党に入っていたことがある)、厭味や妙な屈折なしにマルクスコミュニズムを語れる立場にあった。アルチュセールは勿論、フーコーも若い頃フランス共産党に一時入党し、同性愛を問題にされて?党を離れるといった経験をしており、その苦い体験が彼のマルクス主義サルトル流のアンガージュマンの政治の全面否定に繋がっているが、その点ドゥルーズにはそんな心理的負い目だの屈折などはなからない。『資本主義と精神分裂病』は、マルクスに全面的に依拠した意欲的な政治の書物=道具箱だ。

可能なるコミュニズム

可能なるコミュニズム

フーコーなりドゥルーズ=ガタリなりネグリ=ハートなりを統覚=中心(党?)を否定するアナーキズムだと切って捨てるのは悪質な印象操作と言うべきだろう。柄谷行人はNAMを自己否定しFree Associations(=統覚を欠いた自由連想)を称揚したのだから、彼自身の言説が自己矛盾し、首尾一貫していないと批判すべきだ。