倉橋ヨエコ / 東京ピアノ

東京ピアノ

東京ピアノ

倉橋ヨエコ『東京ピアノ』、なう。引退が惜しまれる、独特なヴォーカルだ。椎名林檎を思わせるというのは本当だ。
倉橋ヨエコhttp://bit.ly/SG3xG)の『東京ピアノ』の歌は、確かに椎名林檎を連想させる。懐古的にして斬新、という背反する要素を併せ持っているようだ。2008年に「廃業」したのが惜しまれる。私は彼女の作品は、これ一枚しか持っていないが、他も聴きたいものだ。

ハービー・ハンコック / ザ・ピアノ

ザ・ピアノ

ザ・ピアノ

ハービー・ハンコックの『ザ・ピアノ』はハービー唯一のソロピアノ作品だが、日本で録音されている。他に2枚のトリオ作品も日本で録音されているが、日本には、ハービーのアコースティックな側面のファンが多いのであろうか。
演奏は、ビル・エヴァンスほど情緒に流れず、構築的にして繊細である。

セシル・テイラー / ソロ

セシル・テイラー『ソロ』は、私が確認しているだけでも2枚ある彼のソロピアノ作品の一枚で、聴き易い部類に入ると思う。といっても勿論フリージャズなので、難解さはあるわけだが。まあ、慣れですよ。

小曽根真 / ブレイクアウト

ブレイクアウト

ブレイクアウト

小曽根真ブレイクアウト』は、彼の唯一のソロピアノ作品。聴き易い作品である。レヴェルは高い。

ガブリエル・タルド / 模倣の法則

模倣の法則

模倣の法則

読み易いとは言えないし、個々の論旨、特に日本についての記述など同意できない部分が多い。だが、しばらく付き合ってみよう。

ディジー・ガレスピー / マンテカ

マンテカ

マンテカ

モダン・ジャズ・トランペットの巨匠ディジー・ガレスピーがヴァーヴに残したものだが、ビバップと共にアフロ・キューバン・ジャズの創設者としての彼が前面に出てきている。
まず冒頭は、「マンテカ組曲」。マンテカを元にした組曲で、聴き応えがある。後半は、アフロ・キューバン・リズムにアレンジされた「チュニジアの夜」「コン・アルマ」「キャラヴァン」。いずれも凄い。

ガレスピー死後にヴァーヴから出た3枚組の長尺CD(http://amzn.to/9OIabY)を持っているのだが、「ビッグバンド」「コンボ」「アフロ・キューバン」とコンセプトごとに分けられていて、興味深かった。これはお買い得だと思うので、余裕ある方はお買いになればいいと思う。
サラ・ヴォーンが亡くなったときにも追悼盤が出たが、それも編集が良かったのを思い出した。

我流クィア理論と相対主義

我流の(つまり器用仕事、ローセオリーとしての)クィア理論と相対主義について考えた。私が理解するところでは、それは民主的である。性(性現象、性的欲望、性的活動…)は無限に多様であり、その多様さを尊重し、平等に扱う。それは相対主義的であり、民主主義的、平等主義的である。
規範として男女の異性愛が中心にならないのと同様、同性愛が中心・規範とされることもない。近傍にある多様な欲望なり信念が肯定される。いわゆるn個の性というやつだ。ただ、ドゥルーズ=ガタリの文脈からは離れるが。彼らが精神分析を批判しつつ、精神病・神経症・倒錯などその用語体系の内部にあったのに対し、私(達)自由で勝手気儘なクィア主義者らは端的に精神分析とも精神医学とも無関係である。性を管理統制しようとするあらゆる権力装置と戦う。
つっちーさんは、「ワタクシ流」「トンデモ」という言葉で我流、個人的創意を否定した。だが、私は、私達の一人一人が思想家なのであって、小さな発明・発案・創意に満ちていると考えている。

ウィントン・ケリー / イッツ・オール・ライト +1

イッツ・オールライト+1

イッツ・オールライト+1

イッツ・オール・ライト+1

イッツ・オール・ライト+1

漫画がジャケットになった、ウィントン・ケリーの1964年の作品。何を題材にしても、ケリー節というか、独特の味わいあるサウンドが醸し出される。ケニー・バレル(g)、キャンディド(conga)等も参加し、盛り上げる。

ウィントン・ケリーは幾ら聴いても聴き足りない。原題がWinton Kelly!というアルバムが何枚かあり、それぞれ『枯葉』『枯葉2』『ウィスパー・ノット』などとして発売されているが、いずれも見事な出来である。レッド・ガーランドほど甘くなく、ビル・エヴァンスほど観念的でなく、ジャズの血が流れているという感じの演奏。

マイルス・デイヴィスと共演したグループでの演奏も忘れがたい。マイルスにとってはケリーは過渡的な存在でしかなかったのだが。しかし、それでも、「最もジャズらしい」ジャズを展開したのが、ウィントン・ケリーとハンク・モブレイが在籍した頃のマイルス・バンドであったことは言えるように思う。

ウィントン・ケリー / 枯葉

枯葉

枯葉

価値と嗜好

後藤さんのブログ(id:eaglegoto)更新されているのを確認しました。星野さんの書き込みへの感想を投稿しましたが、管理者からの承認がないと公開されない設定になっているのに気付きました。

後藤さんは、主観的好み、嗜好に美的判断を還元する考え方に一貫して反対してきたとおっしゃっていますが、私は若干の異論があります。音楽聴取など、個人的、私的にみえる営みも、共同的なものだと考えているからです。後藤さんは現象学の立場に立たれるわけですから、間主観性、共同主観性を強調されるのでしょうが。
私は、嗜好というのは深い概念だと思っているのです。若干ニーチェ風ですが。審美的判断によって顕にされるのは、実のところ私の存在の内実だという考え方があります。○○を好むと判断する【私】そのものが、文化的実践の積み重ねの結果沈殿してきた【効果】であり、共同的、共同体的なものだと思います。
ミシェル・フーコーが晩年に、生存(実存)の美学というのを提唱しましたが、私の読みでは、あれは個人主義への回帰ではなく、暗黙に存続する共同体的創意、生の様式の発案・発明の称揚だと思うのです。というのは、フーコーにとって問題だったのは、ゲイ・コミュニティであり、性現象をいかに生きるかということで、「現在」時における自分達の存在が問われるという事態だったからです。

多文化主義、文化相対主義について。概ね賛成ですが、音楽を離れると厄介な事例があります。例えばアフリカの一部に残る女子割礼やインドの名誉殺人など、女性(など一部の人々)の権利を著しく損ねるような文化慣習をどう考えればいいのかという問題です。普遍的人権を持ってくることは、実質上、西洋(西欧)の文化的価値観を持ち込むことです。以前、このテーマでの講演会を企画しましたが、結論は忘れてしまいました(汗)。ですが、個々の文化を平等に尊重する文化相対主義多文化主義を堅持しつつ、残虐な慣習を内在的に批判していく方法もあるように思います。
また、異性愛社会と異なるゲイ・コミュニティ(など、もろもろの性的少数者のコミュニティ)を考えてみましょう。この場合も、白人優位(人種差別)や男性特権など多くの問題があることは明らかでしょう。それらをコミュニティ内在的に取り組む方策はあると思います。

音楽と関係ない話をしているようですが、ジャズの場合も同じだと思うのです。ジャズ・コミュニティ、ジャズ共同体などを想定してみるといいと思います。後藤さんなど現象学を支持する人達の意見に似てきますが、美的判断はあくまで個々人が行うものですが、共同体による洗練・吟味を経て一般化されると考えることもできます。
チャールズ・サンダース・パースを以前紹介しましたが、彼は、科学的真偽は、科学者集団の討議が決定するというプラグマティズム(プラグマティシズム)の立場に立っていました。私は、それを審美的判断に応用してみたのです。ジャズに関する審美的判断(美醜)は、あくまで個々が行うものだけれども、ジャズ共同体による討議・洗練・淘汰などを経て一般化される、というものです。微妙な留保をしましたが、真偽を問う科学的判断と美醜を問う審美的判断(趣味判断)で若干条件が違いますので、あくまで判断は個々というのを強調した次第です(この辺りについては、カント『判断力批判』などをご参照願えれば幸いです)。

(走り書き)戦争と平和

NHKスペシャルアメリカのロボット兵器対タリバンの貧者の兵器、自爆攻撃のドキュメンタリーを観た。事態はかなり深刻だと思った。アメリカ側もタリバン側も倫理的、道義的頽廃が見られる。だが「正しい」戦争などあるのか。いずれにせよ、人が軽々しく殺されている。この現状はどうすればいいのか。全く分からない。

柄谷行人ネグリ=ハートを批判して、アルカイダこそ典型的なマルチチュードなのに何故彼らを支持しないのか、と言っていたが、連想するのは、次のようなことだ。
友人の結婚祝いで集まった時、或る友人が、銃を手に取って戦える人は羨ましい、そうできる環境なら自分もそうしたい、と語ったのだ。
私は心の中で小さく(そうかな)と思った。昔の赤軍武装戦線ではないが、今、軍事的にやろうと思うなら簡単だ。アルカイダになればいいのだ。銃を手に取りたい、軍事的に戦いたいなら何故そうしない? 所詮この日本という安全な場所からの物言いに過ぎないのではないか。われわれは平和を生きているが、そのことがいいのか悪いのか分からない。だが、恐らく「外」は地獄だろうということは推測できる。地獄のほうがいいという人は、銃や爆弾を取って死にに行けばいいと思う。

戦争と平和の続き

『群像』の今月号で柄谷行人に作家の奥泉光島田雅彦がインタビューしている。柄谷行人は『世界史の構造』を刊行して、日本は憲法九条を実行して自衛隊を国連軍にすればいい、そうすれば世界同時革命だという立場である。かなりはしょっていえば。
興味深かったのは、そこで次のような議論がなされていたこと。誰も三島を無視できないのは何故か。三島は自分の生命を贈与した、つまり自殺したからだ。憲法九条を実行することは、国家が自殺するようなことだ。というのである。無論、柄谷は自殺すべきだという立場でそう語っているのである。

死の欲動や破壊衝動というレヴェルでいえば、超自我として内向化させるか、そのまま他者の破壊に向かうかだが、個人レヴェルで、或いは国家レヴェルで自殺というのは前者であろう。後者を選ぶ人、軍事的にやりたい、武装闘争したい人は、前のエントリーでも書いたが、アフガニスタンでもイラクでもパレスチナでも行って、反米軍事闘争をすればいいと思うのである。但し、実際の死が訪れる直前に、想像していた死と現実の死の違いがリアルに分かる。が、その時には手遅れだ。
赤軍東アジア反日武装戦線のようなものは別に時代遅れでも不可能でもない。現在ではそれが別の衣装を纏っているために、それと判別し難いだけなのだ。生よりも「戦死」を望む人には、いつでもそれは可能であるだろう。くどいようだが、実際の死の直前に、想像された死と現実の死の相違が分かるだろうが。

ウィントン・ケリー / ウィスパー・ノット

ガブリエル・タルドの近代日本評

三〇年前なら、「人種の差異は相互的な借用を不可能にする」という考えを強く支持する論拠として、日本や中国といった極東の諸民族がヨーロッパ文化全体に防壁を張り巡らせた事実を挙げることができたかもしれない。たしかに日本人は顔も輪郭も体格もわれわれとは大きく異なっているが、しかし、彼らはごく最近になって「ヨーロッパ人のほうが日本人よりも優勢である」とようやく感じるようになった。そのときから、彼らはかつてのような不透明な衝立によってヨーロッパ文明の模倣的放射をさえぎろうとはしなくなった。その反対に、彼らはヨーロッパ文明を熱烈に歓迎するようになったのである。中国人がいくつかの点について──すべての点ではないことを中国人のために願っているが──ヨーロッパ人のほうが中国人よりも優勢であると認めるようなことがあれば、日本と同じことが中国にもあてはまるだろう。このとき次のように反対する人がいるかもしれない。「日本のヨーロッパ的方向への転換は、たんなる見せかけであって事実ではないし、根深いものではなく表面的なものである。この転換はほんの少数の知識人の主導によるもので、一部の上流階級はそれにしたがっているが、大多数の国民はあいかわらず外国の侵入に反対しているのだ」と。しかし、この反論は無意味である──国民を根本的につくり変えることを目的とするあらゆる知的・道徳的革命がつねにこのように開始することを、この反論は無視しているのである。外国の手本はつなにエリートによってもちこまれ、それが流行によって少しずつ広がり、慣習として定着し、社会論理によって拡張され、体系化される。キリスト教がゲルマン族やスラブ族、フィン族に入りこむときも、最初はそのように始まったのである。これほど「模倣の法則」にかなう事例はないだろう。(ガブリエル・タルド『模倣の法則』p19-20)

模倣の法則

模倣の法則

これを読んで腹立たしく思わない日本人がいるだろうか。「ほんの少数の知識人」と言っても、夏目漱石は精神錯乱して胃潰瘍になり、森鴎外は西洋人と違い神の存在や霊魂不滅の観念がなくても平気な自分に驚いていたのである。彼らは近代日本の生んだ最高の知識人であろう。その彼らが、西洋文明との衝突において、病気になるほど悩み苦しんでいたのである。それは明治の話で、現在は違うという人もいるかもしれない。しかし、本質的には何も変わっていないのではないのか。

反論に答える。

むむむ 2010/10/17 20:41
>我流クィア理論と相対主義
問題は、反民主的な性的活動に対する位置付けじゃないかしら。例えば、レイプ、児童買春などは、少なくとも民主的には尊重し得ない性的欲望に基づく性的活動でしょう。ということは、多様性も「民主」の名のもとに制限され得るわけだし、決して他の性的行為とは平等に取り扱えないわけね。「キリスト」の名のもとにも制限され得る性的活動はあって、宗教的多様性を尊重した場合、ホモフォビアに対しても多様性を認めなくっちゃならなくなるわけ。「多様性の尊重」という単一的な発想自体、多様じゃないわよね。

ラディカルで参加的な民主主義をどう考え位置づけるかではないでしょうか。私自身は、「レイプ、児童買春など」は認められないと思っています。そのことは、民主的な多数多様性を称揚する私の意見と矛盾しないと思います。
キリスト教の問題ですが、コメント欄でも書いた通り、性的少数者に寛容なプロテスタントの教会もあれば、頑迷にマイノリティを拒否する原理主義的な教会もある、ということが言えます。私は、多数多様性を尊重した場合、ホモフォビアも認めなければならないという論理を拒絶します。多数多様性自体を破壊するような原理原則は認められないのです。
また、これもコメント欄で書きましたが、多様性の尊重という発想自体が単一的だという批判も陳腐なものです。誰もが多数多様性の尊重を口にしているとはいっても、実行している人はほとんどいない。

あなたのような批判の原型は、シェリングを「無差異の闇」と批判した『精神現象学』のヘーゲルだと思います。確かに闇夜に黒い牛は見えない。しかし、見えぬものの背後に多数の声のざわめきを、喧騒を聴き取ることが大事なのではないでしょうか。

性という文脈で言い直すと、流動的で生成変化するというありようをまるごと受け入れること。固定的な属性なりアイデンティティ固執しないこと。欲望の原初的な多数多様性を肯定すること。でしょうかね。