反論に答える。

むむむ 2010/10/17 20:41
>我流クィア理論と相対主義
問題は、反民主的な性的活動に対する位置付けじゃないかしら。例えば、レイプ、児童買春などは、少なくとも民主的には尊重し得ない性的欲望に基づく性的活動でしょう。ということは、多様性も「民主」の名のもとに制限され得るわけだし、決して他の性的行為とは平等に取り扱えないわけね。「キリスト」の名のもとにも制限され得る性的活動はあって、宗教的多様性を尊重した場合、ホモフォビアに対しても多様性を認めなくっちゃならなくなるわけ。「多様性の尊重」という単一的な発想自体、多様じゃないわよね。

ラディカルで参加的な民主主義をどう考え位置づけるかではないでしょうか。私自身は、「レイプ、児童買春など」は認められないと思っています。そのことは、民主的な多数多様性を称揚する私の意見と矛盾しないと思います。
キリスト教の問題ですが、コメント欄でも書いた通り、性的少数者に寛容なプロテスタントの教会もあれば、頑迷にマイノリティを拒否する原理主義的な教会もある、ということが言えます。私は、多数多様性を尊重した場合、ホモフォビアも認めなければならないという論理を拒絶します。多数多様性自体を破壊するような原理原則は認められないのです。
また、これもコメント欄で書きましたが、多様性の尊重という発想自体が単一的だという批判も陳腐なものです。誰もが多数多様性の尊重を口にしているとはいっても、実行している人はほとんどいない。

あなたのような批判の原型は、シェリングを「無差異の闇」と批判した『精神現象学』のヘーゲルだと思います。確かに闇夜に黒い牛は見えない。しかし、見えぬものの背後に多数の声のざわめきを、喧騒を聴き取ることが大事なのではないでしょうか。

性という文脈で言い直すと、流動的で生成変化するというありようをまるごと受け入れること。固定的な属性なりアイデンティティ固執しないこと。欲望の原初的な多数多様性を肯定すること。でしょうかね。