ガブリエル・タルドの近代日本評

三〇年前なら、「人種の差異は相互的な借用を不可能にする」という考えを強く支持する論拠として、日本や中国といった極東の諸民族がヨーロッパ文化全体に防壁を張り巡らせた事実を挙げることができたかもしれない。たしかに日本人は顔も輪郭も体格もわれわれとは大きく異なっているが、しかし、彼らはごく最近になって「ヨーロッパ人のほうが日本人よりも優勢である」とようやく感じるようになった。そのときから、彼らはかつてのような不透明な衝立によってヨーロッパ文明の模倣的放射をさえぎろうとはしなくなった。その反対に、彼らはヨーロッパ文明を熱烈に歓迎するようになったのである。中国人がいくつかの点について──すべての点ではないことを中国人のために願っているが──ヨーロッパ人のほうが中国人よりも優勢であると認めるようなことがあれば、日本と同じことが中国にもあてはまるだろう。このとき次のように反対する人がいるかもしれない。「日本のヨーロッパ的方向への転換は、たんなる見せかけであって事実ではないし、根深いものではなく表面的なものである。この転換はほんの少数の知識人の主導によるもので、一部の上流階級はそれにしたがっているが、大多数の国民はあいかわらず外国の侵入に反対しているのだ」と。しかし、この反論は無意味である──国民を根本的につくり変えることを目的とするあらゆる知的・道徳的革命がつねにこのように開始することを、この反論は無視しているのである。外国の手本はつなにエリートによってもちこまれ、それが流行によって少しずつ広がり、慣習として定着し、社会論理によって拡張され、体系化される。キリスト教がゲルマン族やスラブ族、フィン族に入りこむときも、最初はそのように始まったのである。これほど「模倣の法則」にかなう事例はないだろう。(ガブリエル・タルド『模倣の法則』p19-20)

模倣の法則

模倣の法則

これを読んで腹立たしく思わない日本人がいるだろうか。「ほんの少数の知識人」と言っても、夏目漱石は精神錯乱して胃潰瘍になり、森鴎外は西洋人と違い神の存在や霊魂不滅の観念がなくても平気な自分に驚いていたのである。彼らは近代日本の生んだ最高の知識人であろう。その彼らが、西洋文明との衝突において、病気になるほど悩み苦しんでいたのである。それは明治の話で、現在は違うという人もいるかもしれない。しかし、本質的には何も変わっていないのではないのか。