クィアからの批判
つっちーさん(http://twitter.com/onilez)は著名なレズビアン活動家で、著書もある(http://amzn.to/boTgJ6)。彼女が最近、クィア蔑視、クィア攻撃のエントリーをTwitterで書き続けている。
http://twitter.com/onilez/status/27444206959
@hatakeno_tomato 実務家には「クイア=うさんくさい」って等号成り立っちゃてるひともいるしねえ。
そんな「実務家」など信用できないし、実務=実働の重みを理由に他者を恫喝する者など信頼できないのだ。「うさんくさい」のはどっちだ。
http://twitter.com/onilez/status/27443636148
@midgenasia LGBTのうちの一部だと思いますけどね。<浸透 あんまり痛い子が暴れると「クイア」って言葉きいた時点で拒否反応起きたりしますね。
「あんまり痛い子が暴れると」とはどういう事態なのか。抽象的で婉曲なクィア中傷でしかない。「拒否反応」も何も、まっとうなコミュニケーションがないのだ。「「クイア」って言葉きいた時点で拒否反応起きたり」する自己の自己正当化でしかない。
http://twitter.com/onilez/status/27441645651
@midgenasia どう見ても女にしか見えませんありがとうございましたな自称FTXが「レズビアンは多数派の抑圧者、イベントも全てのジェンダーに開かれるべき」とかクダ巻くんだけど、どうせならゲイイベントにソレ言ってくれって話なんだよねー。(実話)
これは明らかに「ノンパス系トランスジェンダー」や「Xジェンダー」への差別、揶揄、中傷だ。「どう見ても女にしか見えませんありがとうございましたな自称FTX」で何が悪いのか。「どう見ても」と見る自分がその当人の性別を決定できるという傲慢さ以外ここにはない。「クダ巻く」ではなく正論である。「どうせならゲイイベントにソレ言ってくれって話」でなく、レズビアンのイベントで言ってもいいではないか!
http://twitter.com/onilez/status/27441130830
@tummygrrl いわゆるクイアを自称してる大学生とかの痛い子の頭の中に存在するヒエラルキーだと天然男子よりも女子の方が偉くて、異性愛者よりも同性愛者、それよりも両性愛者、シスよりトランス、トランスの中でもXジェンダー、モノよりポリ、とかいう序列が成立しているようです。(涙)
クイアを自称するのは「痛い子」だという根本的な認識間違いがある。他者の頭の中を覗けるはずもないのに、憶測で中傷をしている。
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沢山の物語
- 以下の掲示板に投稿したもの→http://8241.teacup.com/unamas/bbs?
暫定的なメモです。
後藤さん(id:eaglegoto)が徹底した相対主義的視点をお持ちだということは、クラシック音楽も民族音楽のone of themと看做す姿勢から窺えました。私としては、幾つか考えるところがあります。
クラシック音楽(と呼び慣れているが、前も書いたように、訳せば古典派音楽となるこの言葉は不適切で、「近代ヨーロッパ音楽」とでも呼ぶべきところ)が何故、世界中に広まったのだろうか、という点が一つです。この点は、20世紀のジャズ、ロック、それに続くポップスなどについても問わなければなりませんね。
もう一つは、「民族」という括りが適当かどうか、ということです。共産主義(マルクス主義)の国際主義は民族主義(ネーション主義)を解決できなかった、とはよく言われますが、民族(ネーション)そのものが文学や音楽など芸術等を通じて形成された「想像されたもの」(幻想の共同体)だということを押さえておく必要があるでしょう。「民族」という語りを採用するならば、例えば私は日本民族、日本人(ヤマト)に属しますが、それに属さない少数民族の存在(アイヌ民族や沖縄など)にも配慮すべきだし、異邦人、外国人、移民などの存在も顧慮すべきでしょう。それに同じ日本人・日本民族(ヤマト)といってもその内部は多様であり、例えば邦楽一般と津軽三味線はかなり違います。
私としては、「民族」を基軸に考えることに若干の疑義がないわけでもないのです。資本主義のグローバリゼーションは国境を越えてしまう。模倣ということでいえば、日本の歌謡曲が海外、例えばアメリカのそれの模倣ということもあるだろうし(有名な例では、西城秀樹の「ヤングマン」のカヴァーでしょうか)、日本の歌謡曲が、数十年遅れで、アジア諸国等で流行しているといった現象もある(これは飲み屋をやっていた頃、外国人の客から直接聞きました)。
以上二つの問いは措いておくとして、私が考えたのは、以前の書き込みで、自分はクラシックやジャズは普遍的だけれども、演歌・歌謡曲は特殊というニュアンスのことを書いたけれども、そうとも言い切れないのではないだろうか、ということです。
もう一つ、芸術音楽と商業音楽の区別も判明なものではない、ということも。
というのは、カラオケ機器が普及する以前の、キャバレーやクラブ(今でいうクラブではなく、当時──50年くらい前──の意味ですよ)を考えてみればいいと思うのですが、そこではバンドメン、ジャズメンは演歌・歌謡曲や流行歌なども演奏していました。私の両親は石橋幸雄(ts)、攝津(石橋)照子(pf)と言い、二人ともバンドメンでありバンドリーダーでしたが、彼らはキャバレーやクラブでジャズと共に流行歌等も演奏していた。
純粋なジャズ、本場のジャズなどは、むしろジャズ喫茶のような空間で純化されていったのではないかと思われます。日本のジャズが、日本の民衆音楽、歌謡曲などとかけ離れた存在でなかったということを、『栄光のシャープス・アンド・フラッツ』を聴いて思い出したのですが、というのも彼らは、美空ひばりの「真っ赤な太陽」なども演奏していたからです。また、シャープス・アンド・フラッツは「愛のままに」の秋元順子とも共演している。それは日本的特殊性というよりも、ジャズが日本で生命を持って生きていくための必然だったのではないか。というふうに考えれば、ジャズよりも演歌・歌謡曲・流行歌が下にあるかのような価値判断をすることはできない。勿論、両者は違うものです。しかし、関係してもいる。
芸術音楽と商業音楽ということでいえば、ジャズを仮に「20世紀アメリカの商業音楽」と定義するとすれば、そこから零れ落ちるものが多数ある。現在は21世紀だし、ここはアメリカではなく日本だし、商業的に成り立っていないアマチュアやセミプロの裾野も膨大に広がっている。Youtubeやニコニコ動画やUstreamなどに。私の音楽も、そういうアマチュア、非商業音楽(芸術音楽とは敢えて言いません)の実践の一つなわけです。
これは日本だけの現象ではなく、特にフリージャズは、商業的に成り立ちにくい性質がある。有名な例を挙げればチック・コリアの「サークル」が、前衛を志向しつつ、商業的には全く成功しなかったということがあります。アメリカのジャズメンのヨーロッパ脱出なども、現代音楽などの土壌もあり比較的ヨーロッパのほうがフリーが受け入れられ易い土壌があったからではないでしょうか。日本も、山下洋輔トリオが評価されたのは海外のジャズフェスでだったし、高瀬アキなどはドイツに住んでいます。
表題を「沢山の物語」としたのは、唯一の普遍=大文字の歴史(History)があるのではなく、無数のもろもろの小文字の歴史(histories)、物語(stories)があるという意味です。複数の歴史があり、それは同期しておらず、ずれている。前述したように、日本の歌謡曲が数十年遅れで途上国で流行しているなどはその好例でしょう。
クラシック、いや「近代ヨーロッパ音楽」の問題は、歴史、物語のone of themであるはずのそれが、何故「世界性」を持つ(或いは持っていた)のかという問いになりますが、それを社会学的に帝国主義や権力の問題として捉えることもできますし、音楽に内在して記譜法や楽典などが普及し易い形式だったという理由を考えることもできます。
中上健次のジャズエッセイ『破壊せよ、とアイラーは言った』は、「コードとの格闘」の物語で、コルトレーン、アイラーによってそれは解体され尽くして物語は終わる、ということになりますが、実際はそんなに簡単ではない。
本当にヨーロッパ近代(の影響圏)から出ようとすれば、近年の高橋悠治の作品の一傾向のように、純邦楽やアジアの音楽の技術などを本格的に導入するしかないでしょうが、私自身は、それには余り魅力を感じていません。ジャズでいえば、民族(民俗)音楽に最も関心を示し取り入れたジャズメンは、オーネット・コールマンとの双頭コンポを解消して以降のドン・チェリーでしょうが、評価については差し控えます。日本というテーマに関しては、秋吉敏子のもろもろのビッグバンド作品のほか、私が聴いたのは、小唄などを取り入れた近藤等則の作品などです。正直、よく分からなかった。けれどもそういう視点も大事なんだろうな、と思って聴きました。
- 作者: 中上健次
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iJazzピアノジャズスタンダード100 Vol.1, Vol.8
注目されているジャズピアニスト、松本茜のダウンロード販売専門のコンテンツ、iJazzピアノジャズスタンダード100 Vol.1とVol.8をiTuneでダウンロードして購入した。iTuneでダウンロード購入するのは初めての経験だ。ちょっと身体が震えた。
聴いてみた。で、まず連想したのは(大袈裟かもしれないが)アート・テイタムのソロ・マスターピーシズ。次いで、先日亡くなったハンク・ジョーンズのグレート・ジャズ・トリオのスタンダード集。
松本茜のスタンダード演奏はピアノソロで、ハンク・ジョーンズはトリオ演奏という違いはあるが、ざっくり言ってしまえば可もなく不可もなくというか、快適に聴けるけれども、冒険や驚きなどの要素には乏しい、といったところだろうか。
二十歳そこそこで、ここまで落ち着いて演奏を展開できるのは凄いと思ったし、自分自身の非力を反省すると、やはり松本茜は凄いのだと思うのだが、彼女の『フィニアスに恋して』『プレイング・ニューヨーク』の勢いというか熱気も余り感じられない。多分、残り80曲全部ダウンロード購入して聴いても、この印象は変わらないと思う。
商業的にはこの試みはいいと思う。月に10曲ずつ10ヶ月で、CDを10枚出したのと同じ計算になる! ただ、音楽的にはもっと工夫の余地があるかも、と思った。
兵頭佐和子 / ブラン・ニュー・メロディ
- アーティスト: 兵頭佐和子,兵頭佐和子トリオ
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セシル・テイラー / ソロ
- アーティスト: セシル・テイラー
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