我流クィア理論と相対主義

我流の(つまり器用仕事、ローセオリーとしての)クィア理論と相対主義について考えた。私が理解するところでは、それは民主的である。性(性現象、性的欲望、性的活動…)は無限に多様であり、その多様さを尊重し、平等に扱う。それは相対主義的であり、民主主義的、平等主義的である。
規範として男女の異性愛が中心にならないのと同様、同性愛が中心・規範とされることもない。近傍にある多様な欲望なり信念が肯定される。いわゆるn個の性というやつだ。ただ、ドゥルーズ=ガタリの文脈からは離れるが。彼らが精神分析を批判しつつ、精神病・神経症・倒錯などその用語体系の内部にあったのに対し、私(達)自由で勝手気儘なクィア主義者らは端的に精神分析とも精神医学とも無関係である。性を管理統制しようとするあらゆる権力装置と戦う。
つっちーさんは、「ワタクシ流」「トンデモ」という言葉で我流、個人的創意を否定した。だが、私は、私達の一人一人が思想家なのであって、小さな発明・発案・創意に満ちていると考えている。